久瀬君の3年目の災難

by ジム改さん


「どうしたのあゆ、何を悩んでるわけ?」

 百花屋で一人コーヒーを前にどんよりと落ちこんでいるあゆに、店内に入ってきた真琴が声をかけてきた。ここには昔からの仲間がたむろしているので、こういう出会いは頻繁に起こる。今も祐一が別の席で新聞片手にブレンドコーヒーを飲んでいるし、カウンターでは貧乏探偵の斉藤がトランプで遊んでいる。
 あゆは血の繋がらない妹に席を勧めた。

「うぐぅ、実は、高校の時のクラスメートに結婚式のスピーチを頼まれたんだけど、ボクそういうのは苦手で」
「人の結婚式のスピーチなんて面白くないわねえ。どうせなら、さっさと自分が結婚してスピーチさせる方になりなさいよ」

 人の悪い表情で真琴は1つ年上の義姉を見た。

「ボクもそうしたいけど・・・・・・そういう真琴ちゃんはどうなの?」
「わ、わたし? わたしは、まあ・・・・・・相手も居ないしねえ」

 真琴は自分で掘った墓穴にずっぽり埋まりながら苦笑を浮かべた。現在大学二年生の彼女は評判の美人なのだが、妙に気が強いので彼氏のなりてが無かったのである。
 仕方なく助けを求めて隣を見た真琴は言葉を失った。そこに座っているのが祐一である事に気づいたのだ。祐一の回りは常に女の子がいるので、こういう時には心強い仲間とはなり得ないだろう。
 真琴がウェイトレスが運んできたパフェをスプーンですくうと、新たに久瀬が入ってきた。彼はマスターや顔見知りに声をかけながら祐一の席にさっさと座ってしまう。祐一は新聞から顔を上げ、久瀬に非難の視線を向けた。

「座って良いとは言ってないんだが?」
「まあ気にしないでくれたまえ。それよりも、君に相談があるんだが」
「なんだ、一体?」

 祐一は軽く応じた。

「女の喜ぶプレゼントというかな」
「なんだ、愛人でも出来たのか?」

 友人のさりげない一言に、久瀬は危うく口に含んだコーヒーを吹きかけた。持ってきたマスターがちょっと吃驚している。

「ば、ばか。冗談にしてもそんなことを・・・・・・・・。佐祐理だ。結婚記念日がもうすぐなんだ。毎年プレゼントをしているんだが、今年は何にしようかと思って」

 久瀬は、ピクニックを前にした小学生もかくやという浮かれようだ。

「・・・・・・お前は、結婚して何年になる?」
「3年だが、それがどうかしたかい?」
「いや、・・・・・・・・・いい、なんでもない」

 祐一は遠まわしとは言えない皮肉が、友人の精神の外壁に何の傷も付けられなかった事を悟って沈黙した。

「去年は絵だったんだ。居間の壁になにか欲しいというから、画商に行って選んできたんだが・・・・・」

 祐一は放っておけば延々と話を続けそうな友人の台詞を遮った。

「何が欲しいか、佐祐理さんに聞いてみたらどうだ?」
「聞いてみたんだが、別に何もいらないって言うんだ。僕がいればそれでいいって」

 あからさまな“のろけ”に脱力感を味わったのは、直接言われた祐一よりも、むしろ周囲の話を聞くとはなしに聞いていた真琴とあゆであった。真琴は嘆息して天井を仰ぎ、あゆはどんよりとした視線を冷めたコーヒーの黒い水面に注いでいる。
 そして、コーヒーを飲み干した久瀬は時計を見ると立ちあがった。

「さてと、今日はこれで失礼するよ。これでもなかなかに忙しくてね」
「仕事か?」
「ああ、大学と平行してやるのは大変だが、金が良いからね」

 じゃあ、何か考えておいてくれと言い残して、久瀬は百花屋を飛び出して行った。それを見送って祐一はぼそりと呟く。

「いつまでたっても新婚気分の抜けない奴だ」
「まさか、久瀬と佐祐理が学生結婚するとは思わなかったけどね」

 真琴が席を隔てている観賞植物ごしに話しかけてきた。

「だがな、しょっちゅう聞かされるこっちの身にもなってみろ」
「羨ましいけどね」

 コーヒーから視線を離さずにあゆが小さく呟いた。

「大体、寂しい独り者ばかりの中であの浮かれようは何よ。少しは回りに気を使いなさいよね」
「それに付いては同感だな」

 何時の間に来たのか、斉藤が紅茶を片手に久瀬が座っていた席に立っていた。

「まあ、相沢なんかには気にもならないだろうけど」
「いや、俺だって常々呆れてるぞ。何時まで新婚気分を続けられるんだ、あいつは?」

 祐一は少し考えこむと、昔からの悪戯っけを前に出した表情になった。

「前から見たいと思ってたんだ、一度あの能天気な愛妻家顔が慌てるところが見てみたいと」

 真琴が身を乗り出した。

「面白そうね」
「でも、久瀬夫婦が相手じゃ無理だと思うよ。あんなに中の良い夫婦はなかなかいないもん」

 あゆがやんわりと静止をかける。

「それはそうだが、一度佐祐理さんが浮気した時のあいつを見たいと思わないか?」
「無理よ無理よ、それは久瀬に浮気をさせるより難しいわ」
「面白くはあるけどね」

 真琴と斉藤が口を揃えて苦笑した。

「いや、本当に佐祐理さんが浮気をする必要は無い。ようは佐祐理さんが浮気したと久瀬に思いこませれば良いんだ」
「そんなことが出来るかな?」
「出来ない事も無いさ。幸い久瀬は明後日から暫くこの街を離れるからな。天野の依頼で仕事に行くらしい」

 祐一には何か心算があるようだった。

「皆さんお揃いで、何の相談ですか?」

4人の間に電流が走った。思わぬ強い視線に射すくめられた声の主、天野美汐と美坂栞は軽く眉を寄せた。

「ああ、お前達か」

 祐一は安堵に表情を緩め、自ら席を立って古くからの友人を座らせた。

「一体何事です?」
「楽しいゲームの相談なんだが、参加するか?」
「物にもよりますが」
「栞、あんたが参加してくれると心強いわ」
 
 真琴がさりげなく栞の肩に手を回した。
 祐一が始めた説明にしばし耳を傾けていた美汐は、途中で立ちあがった。

「どうも、こういう話は私の性には合わないようです」
「ここまで聞いてそれは無い」

 斉藤が堅物の友人の袖を掴み、引きとめる。

「大体、友人をペテンにかけるという訳ではないですか。悪いですが私は断らせていただきます」
「・・・・・・・・・では、口外はしないでくれ」

 しばし沈黙する美汐に、祐一はもう一歩譲歩した。

「それじゃあ、これが冗談で済む範囲を超えると判断したとき、久瀬に話しても良い。ただし、それまでは口外しない。これでどうだ」
「・・・・・・・・分かりました、ほかならぬ皆さんの頼みです、約束しましょう」

 美汐はきっぱりとそういうと、彼女らしいきびきびした歩調で立ち去って行った。

「冗談が分からないわねえ、美汐は」

 真琴は声に出して、小さく呟いた。

「あの真面目さが美汐さんの長所ですから」

 栞が宥めるように言った。

「それで、後は誰を同志にしますか?」
「・・・・・・いや、こういうのは下手に仲間を増やすとかえってやりにくいだろう」
「北川夫婦は?」
「結婚してる奴にはこの際参加する資格は無い」

 舞と水瀬親子は暗黙の内に排除されていた。

「あと、誰か久瀬さんの傍に内通者が欲しいですね」

 栞はすでに実行段階に思考を進めているようだった。こういう時、栞の頭脳は実に頼りになる。

「・・・・・・そうだな、それは俺に心当たりがある、任せてくれ」

 祐一が簡単に引き受ける。

「で、どうするの?」

 あゆが不安そうに問い掛けた。彼女は昔馴染みの、内心で尊敬している同い年の友人を“ひっかける”ことに、内心で納得がいかないものを感じていたのだ。

「では、作戦を説明しよう」

 祐一が片手を上げた。誰もが無意識に顔と体を祐一に傾けた。

 十分後、ウェイトレスは栞に良いワインを持って来てくれと頼まれた。全員にグラスが配られる。

「では、作戦の成功を祈って」

 祐一が押さえた声で音頭を取る。五個のグラスが触れ合い、期待と軽い興奮に味付けされたワインが干された。



 翌朝、少し早めに起きた祐一はその足で八束神社に赴いた。ここは天野家の拠点の1つで、天野の者と呼ばれる退魔士達が集っている。
 祐一は八束神社に上がる階段の下で久瀬に同行する天野家の退魔士、舟木を待っていた。若いがなかなか優秀な退魔士で、よく久瀬に同行して仕事をしているのだ。今回は彼が久瀬に同行するチームの指揮を任されている。
 舟木は階段の下で待ち構えている祐一を見て逃げ出しかけたが、真っ直ぐこちらに来るのを見て観念した。

「おはようございます、相沢さん」
「忙しそうだな、明日から仕事か?」

 はい、と返事をして、舟木は次の言葉を持った。

「所で舟木、この間のカードの貸しの事なんだが・・・・・・」

 天野の若い退魔士は絶望と困惑のない混ざった表情を浮かべた。彼は数日前、久瀬と祐一を相手に酒の席でそのままカード勝負をしたのだ。酒の勢いで金を賭けたのだが、その日徹底的に見放されたのは舟木であった。彼は結局久瀬に千円、そして祐一には50万円の貸しを作ったのである。50万円と言えば彼の月収を超えている。出来れば祐一とは顔を合わせたくは無かったであろう。

「あ・・・・と、その・・・・・・・もう少し、給料日まで待っては貰えないでしょうか?」
「その事だが、少しお前に頼みがある。大した事じゃないんだ。引き受けてくれるならカードの貸しは忘れても良いんだが」
「何、ですか?」

 舟木は瞳に警戒の色を漂わせた。
 祐一の話を聞き終えた舟木は、納得のいかない表情で「それだけですか?」と呟いた。

「本当に、その話を久瀬さんにするだけで良いんですね。私の友人の話として」
「そう、現地に行って二、三日後ぐらいにな」
「何か訳があるんですか?」
「まあ、すこし、な。多分久瀬は何も言わんと思うが、それさえやってくれれば貸しの事は忘れよう」
「は、はあ、承知しました」

 一礼し、踵を返した舟木が首を捻るのを見て、祐一は布石が出来た事を確信した。どのみち天野の部下から50万円を取りたてるつもりは無かったので、丁度よかったのだ。
 その足で公衆電話に入った祐一は公衆電話ではなく自分の携帯から真琴の携帯に電話していた。よほど周囲を気にしているらしい。
 暫くコールしていると、真琴が出た。

「おはよう真琴」
「おはよう祐一。で、どうだった?」
「こっちは上手くいった」

 電話の向うで真琴が頷いた気配がする。

「こっちは栞が手ごろなホテルを物色してるわ。ここから半日くらいで、回りに邪魔が入らない、静かで雰囲気の良いところがあるんだって」
「結構」
「それから、ちょっと栞から提案があるんだって」

再び電話の向こうがごそごそし、今度は栞の声が聞こえてきた。

「祐一さん、祐一さんは倉田先輩と親しい男性を知りませんか。つまりですねえ、久瀬さんの使いと言っても不自然じゃなくて、しかも倉田先輩が安心してついていきそうな方です。出来れば女性に好かれそうな美男子が良いですね」

 祐一は腕を組んだ。栞の意図を察したのだろう。

「ふむ、久瀬が親しくて、佐祐理さんもよく知っている。で、女にもてる二枚目か」
「そうです」

 栞が肯定した。

「ピッタリのがいる」
「ありがたいですね、どなたですか?」
「俺だ」

 祐一はあっさりと言ってのけ、端正な口元にからかうような微笑を浮かべた。
 電話の向うからは栞と真琴の絶句した雰囲気がはっきりと伝わってくる。先に立ち直ったのは栞だった。

「・・・・・・祐一さん、確かにあなたは条件に当てはまるでしょうが」
「俺では駄目か?」
「祐一さんだと冗談じゃ済まなくなります」

 本人のせいではないが、祐一の女性関係はあまりにも有名である。祐一は舞一筋なのだが、回りには佐祐理と香里以外全員と付き合っているという印象を与えるのだ。もちろん祐一も、他の女性達もそんなつもりは無い。
 だが、そういう風に思われていることが問題なのだ。祐一が久瀬の奥さんを連れ出したなどとなれば、久瀬どころか街中が信じてしまうだろう。冗談にするには危険過ぎた。

「だが、佐祐理さんを一人でやるわけにも行かんぞ。とにかく信頼できる人間が必要だな」
「・・・・・・あゆはどう。あゆが騙すなんて誰も思わないわよ」

 真琴が提案したが、祐一は賛成しなかった。

「女じゃあまり意味が無い。それにあゆは嘘がつける奴じゃない。俺は大抵の事ならあいつを信頼できるが、こういう場合はな」
「それもそうね、じゃあどうするの?」
「・・・・・・北川が休みを取るとか言ってなかったか?」
「そういえば、何時も遊んでやれない娘をたまには遊びに連れて行ってやらんと、とか言ってましたね。お姉ちゃんは大学がありますから付き合えないと嘆いてました」

 しばしの無言が続く。どうやら何かを考えているらしい。

「子供連れなら丁度いいわね。佐祐理も安心するし」
「はい、さっそく話してみなすね」

 栞は携帯を切った。



 その日、講義が終わった祐一は久瀬のいる講堂に顔を出した。

「おい、久瀬」
「おや、君から話しかけてくるとは珍しいね」
「たまにはな。それよりも、前に皆で飲みに行こうと言ってただろう」
「ああ、全員の都合がつかなくて伸びてた奴だね」
「ああ、今度お前が帰ってくる頃には全員の都合が合いそうなんだ。で、店の予約もあるから、出席するなら先に名前を書いていってくれ」

 祐一は久瀬の座っている机に紙を置いた。

「分かった、もちろん出席するさ」

 久瀬がペンを取ると同時に携帯が鳴った。その番号を確認して舌打ちすると、慌しく祐一が指し示した箇所に署名した。『久瀬隆之』と。



 久瀬佐祐理はコーヒーを入れ、居間のソファに腰を下ろした。リモコンでTVのスイッチを入れる。丁度ニュースの時間のはずだった。
 思えば変わった人と結婚したものだと、今にして思う。退魔士なんて、それまでは漫画か小説の中だけの存在で、現実にはいないと思っていたのに、そういう人が身近にいたのだから。彼はまだ学生の身分だが、時折仕事で各地に赴いている。この仕事はハイリスク・ハイリターンなので、危険も大きいが見入りも大きい。そうでなければ大学生が親のスネも齧らずにこんな立派な一軒家に住めるわけが無い。
 だが、夫が仕事に赴くという事は、彼が危険に晒されるという事でもある。今までにも幾度か軽いとは言えない怪我をしてきた事があるし、同業者が死んだという話しも耳にしているのだ。出来れば別の仕事を探して、こんな危険な仕事はできるならやめて欲しいと願ってはいるのだが、今の仕事を夫が天職だと思っているのも理解しているし、夫がこの業界でも屈指の優れた退魔士であることも今では知っている。何より、夫に来る仕事は依頼というよりもほとんど悲鳴なのだ。誰の手にも負えないからこそここに回されてくる。それを考えるとやめて欲しいと口に出す事もできずにいる。
 幸い、今回の仕事は簡単なもので、退魔というよりも経験の浅い退魔士の実戦経験を積ませるのに念のため同行するというものなので、夫の身を心配する必要はなさそうだ。
 彼女の物思いは、玄関のインターホンの音に破られた。身軽に立ちあがった彼女は、玄関に長年の親友、相沢祐一の姿を見た。

「こんばんは、佐祐理さん」
「祐一さん、こんばんはです」
「今日は、久瀬に頼まれて伝言を届けに来ましたよ」
「まあ、どうもすいません」

 微笑して封筒を受け取りながら、佐祐理は心持ち首を傾げた。夫は今朝、何も言わずに出掛けていったのだ。わざわざ伝言を寄越すような用件は思いつかなかった。

「それじゃあ、俺はこれで」

 軽く一礼し、帰りかける祐一を、佐祐理は慌てて引きとめた。

「どうぞお入りになってください、今丁度コーヒーを入れたんです」
「・・・・・・あ、でも、今日はもう遅いし、又今度ということじゃ駄目かな?」
「そうですか、残念です」

 しょぼんとしてしまった佐祐理に、祐一は慌てて前言を翻した。

「あ、いや、喜んで上がらせてもらいます」
「あははは〜、そうですか、じゃあ上がってくださいね」

 佐祐理は花のような笑顔で祐一を居間に通し、コーヒーを入れ直して彼女もソファに腰を落着けた。
 その場で開けた白い封筒には、どこかのホテルの予約カードと、手紙が入っていた。

『愛する佐祐理
 もうすぐ三回目の結婚記念日が来る。今までありがとう。そしてこれからもよろしく。
 何かプレゼントを、と考えたのだが、君に喜んでもらえそうなものが思い浮かばない。そこで静かなホテルで二人っきりで過ごすというのはどうだろう。少し遠いが、降山という所に鶴来屋という旅館がある。気候も穏やかで、山並みが凄く綺麗だそうだ。残念ながら僕は暫く動けないが、仕事が終わり次第行くから、先に行ってのんびりしていると良い。勧めてくれた友人の話によると、その旅館は料理も一流という話だ(君の方が美味しいと思うが)。当日は、評判の山を眺めながら食事でもして、ゆっくりしよう。
 いつでも君の事を思っている。

 久瀬隆之

追伸・君もよく知っている北川が、丁度子供を連れてそっちに行くそうだ。話してあるから、よかったら一緒に行くといい』

 文章はワードプロセッサ−のようだが、署名だけは夫の字である。佐祐理はふいに、三年前にケーキとキクとミソサギの花を抱えて自分の前に立った夫の姿を思い出した。こんな手紙をあの隆之がどういう顔をして書いたのかと思うと、思わず微笑してしまう佐祐理だった。

「内容をご存知でした?」
「結婚記念日の話でしょ」
「ええ、旅館を取ってあるんですって。鶴来屋って知ってますか?」
「俺は行った事は無いですけど、評判は良いですよ」
「そうですか」

 佐祐理は嬉しそうに手紙を抱きしめていた。

 久瀬邸を辞した祐一は、その足で友人たちとの打ち合わせをするべく、行き付けの酒屋に足を運んだ。そこではすでに真琴、栞、あゆ、斉藤に加えて、何故か北川の妹、姫里までいた。

「こういう事になると集まりの良い事だな」

 いささか皮肉っぽく言って、祐一は席についた。

「それでどうなのよ?」

 さっそく真琴が聞いてきた。

「もちろん上手くいった」

 何しろ佐祐理に渡した手紙は、祐一と栞の苦心の作だったのだ。完璧なラブレターなら栞に任せてもよかったのだが、何しろ差出人はあの久瀬だ。いろんな理由で久瀬との付き合いが長く、その性格を知り尽くしている祐一が推敲し「これなら久瀬が出してもおかしくはない」という手紙を作るのにまる一昼夜を費やしたのだ。ここで躓くわけにはいかなかった。
 しかし、毎度の事ながらアホな事には労力を惜しまない奴らだ。

「で、そっちは?」
「北川なら、素直に喜んでたわよ」
「当たり前だ、あの旅館は安くないんだ。それで、事情は話したのか?」
「ううん、表の話だけよ。話すと嫌がるかもしれないし、下手に共犯者を増やすのもどうかと思ってね」
「結構、真琴にしては上出来だ」

 祐一は頷くと、あゆの作った水割りを飲み、視線を姫里に移した。

「お前は?」
「楽しそうな話だったから」

 姫里は悪びれずに答えた。

「久瀬に睨まれるぞ」

 姫里は平然としていた。さすがは死神というところか。

「女子大生って結構疲れるのよねえ。レポートや課題は多いし、うるさい男どもは多いし、いい男はもう瘤付きだし。たまには気分転換も良いかなっと思ったの。こういう話は嫌いじゃないしね」

 さすがは北川の妹だけの事はある。

「私なら写真を取りますね」
「むう、斉藤、どう思う?」
「いけるだろうな」

 斉藤は組んでいた腕を解き、上体をテーブルに乗り出した。



 街を発った三日後、久瀬は依頼された山中の放棄された神社に来ていた。新人の退魔士達が要領悪く調査を進めていくのを見ながら久瀬は苦笑して隣に立つ同僚を顧みて手を出した。

「・・・・・・舟木?」
「あ、はい」

 名前を呼ばれて舟木は吃驚したように顔を上げた。

「どうした、君も新人の仲間入りかい?」
「い、いえ、すいませんでした」

 慌てて持って来ている資料を差し出す。

「なにか心配事かい。僕でよければ相談に乗るが?」
「はい、自分事ではないのですが・・・・・・」

 舟木は口篭もった。祐一との約束を思いだしていたのだ。今が絶好の好機といえる。

「私の友人の事なのですが、彼も退魔士なのですが、仕事が終わって帰宅してみたら、奥さんが家を出てしまっていたというんです」
「またどうして」
「さあ、そのへんはよく分かりませんが、どうも好きな男性が出来てしまったようで。友人も仕事で家を留守にする事が多かったようですから、奥さんも寂しかったようです。そんな書置きがあったそうで」

 久瀬は顔を曇らせ、しばし考えこんだ。そういう事もあるだろうと思う。自分は佐祐理に対してそういう心配をしたことは無いが、誰もが自分と佐祐理ではないのだ。

「あるのだな、そういうことが」

 彼の幸福は、この際負目となった。

「私も、何とも言いようが無くて・・・・・・」
「だろうな」

 その時、新人が困り果てた顔で自分を呼ぶ声が聞こえた。久瀬はそちらに歩いていき、舟木が半歩遅れて付いていくが、頭の中でまだ首を捻っていた。祐一に頼まれた噂話に一体どんな意味があるのか、理解できなかったのである。
 それが久瀬に投げ込まれた小石の小さな波紋であり、栞編曲の辛辣な歌劇の序曲であるなど、彼に想像できるはずも無かった。

 その夜、こんな携帯電話も繋がらない山奥で唯一の連絡手段ともいえる無線機が電波を受信した。久瀬は何事かと思い、通信機を取る。

「こちら久瀬だ、天野さんかい?」
「残念だが、俺だよ」
「相沢君か!?」

 久瀬は驚いた。どうしてこの無線機で相沢君が話してこれるのだ。これは天野家が使っている無線機なのに。

「はっはっは、斉藤の無線を使っているのだ」
「だが、一体どうやって・・・・・・・・まさか、周波数を調べたのか?」
「斉藤は実に腕のいい探偵だからな」
「貧乏を付け忘れてないかい?」
「それは言っちゃいけない事さ。それよりも、佐祐理さんへのプレゼントは決まったか?」
「考えてる暇もない、何かいいのはあるかい?」

 祐一は舟木がもうあれを話したかどうか考えながら、さりげない第一撃を繰り出した。

「ところで久瀬、佐祐理さんは何処かに出かけたのか?」
「いや、そんな事は言ってなかったが、何故だ?」
「昨日皆と飲みに行ったんだが、お前の家に明りが付いてなかったからな」
「実家にでも行ってるのかな」

 久瀬の心の中に、一瞬今日の舟木の友人の話が思い出され、慌てて不吉な想像を打ち消した。そんな話を思い浮かべるだけでも、佐祐理を侮辱しているような気きがしたのだ。

「ならいいが」
「悪いけど相沢君、家の方に聞いてみてくれないか。なにか急に用事でもできたのかもしれない」
「分かった、じゃあ明日、このくらいの時間にな」



 その翌日。

「さて」

 祐一は両手を擦り合せ、斉藤の部屋の通信機を弄った。すぐに久瀬と繋がる。

「やあ久瀬、どうだ、調子は?」
「まだ暫くかかりそうだよ。それより・・・・・・」
「ああ、佐祐理さんの実家に聞いてみたが、なにも聞いてないそうだぞ」

 もちろん祐一は実家になんぞ聞いてはいない。

「・・・・・・で、僕の家は?」
「ああ、あゆに見に行ってもらったんだが」
「・・・・・・留守・・・・・・なのか」
「ああ」

 祐一は幾分声を潜めた。

「多分なにか急用でも出来たんだと思うが・・・・・・。言いたくは無いが事故とかの可能性もあるぞ。なんなら斉藤に調べてもらったらどうだ?」
「・・・・・・いまいち頼りないが、藁よりはマシか」
「そうだと思うぞ、じゃあ斉藤と変わるから」

 ごそごそと音がしたかと思うと、通信機から不機嫌そうな声が聞こえてきた。

「頼りなくて悪かったな」
「き、聞いてたのかい?」
「俺の通信機だからな。まあいい、それよりもどうする?」
「すまんが、頼めるかい?」
「まあ仕方ないな、俺の仕事は困りごとの解決だし。そうだな、仕事がらみでお前に恨みを持ってる奴も少なくは無いだろうしな」
「脅かさないでくれ」

 久瀬は冗談めかして言ったが、その顔色は悪い。自分でもその可能性には思い当たっていたのだろう。

「すまんすまん、じゃあ倉田さん、じゃなかった、奥さんの事は任せろ。探してみる」
「あまり大袈裟にしないでくれよ。あとで友達の所に行ってただけなのに、と笑われるかもしれないからな」

 そうであれば良い。それは推測というより、希望に近かった。

「そうだな、じゃあ奥さんと仲の良い友人の名前を教えてくれ。探しやすくなる」
「一番仲が良いのは川澄さん。長倉恵美、川名みさき・・・・・・・・」

 久瀬は幾つかの女性の名を上げた。

「よし、分かった。明日連絡する」
「宜しく頼む」

 久瀬は通信機に向って頭を下げた。
 そして通信機が切れたのを確認して全員の顔が綻ぶ。

「私の出番ですね」

 部屋の中に何時の間にか姫里が立っていた。

「上手く頼むぞ」
「分かってます。奥さんは良く見えるように、お兄ちゃんは誰だか分からないような写真を撮れば良いんですよね」

 姫里の表情に浮かぶ笑みに危険なものを感じた斉藤は、さりげなく釘をさした。

「やりすぎるなよ、冗談や間違いで済ませられる範囲でだぞ」
「大丈夫です。私も節義の持ち合わせはありますから」
「それが一番心配なんだ」

 姫里は笑って会釈すると、出ていった。斉藤は先程の音声を録音したテープを持つと、友人たちの待つ行き付けの飲み屋へと向った。



 斉藤の仕事場には祐一、栞、あゆ、真琴が来ていた。

「さてと、そろそろあいつの仕事も終っただろう。お前たちは黙っててくれ」
「姫里の方はどうなんだ?」
「大丈夫だ、昼になかなかの写真を持ってきた」

 斉藤はにやりと笑い、通信機を操作した。さっそく待ちかねたような声が飛び込んでくる。

「斉藤か!」
「やあ久瀬」
「待っていた、それで?」
「まず、お前に教えてもらった友人だが、誰も奥さんが出かけるという話は聞いていないそうだ」
「本当か」
 
 斉藤は相手も見えないのに頷いた。もちろん彼は実際に話も聞いていない。

「奥さんが何かの事件に巻き込まれた、という話もない」
「じゃあ、佐祐理はどうしたんだ!」

 久瀬の声が高くなる。

「怒らんで聞いてくれ。それとは別に新しい情報があったんだ」
「すまん」
「五日前、奥さんが旅行鞄を持って家を出るのを見たと言う者がいる。別に強制されてる様子は無かったそうだ」
「旅行? 変だな、それなら何か言っていきそうなものだが」

 後半は口の中だった。一瞬考え、もう一度口を開く。

「行く先は分からなかったか?」
「それは分かってる。降山という所の高級旅館に逗留しているようだ。それと、言いにくい事なんだが・・・・・・」
「なんだ、何かあるなら言ってくれ!」
「・・・・・・ああ、奥さんなんだが、連れがいたらしいんだ」
「それは?」
「その連れというのが、若い男だったらしい」

 息を潜めて聞いていた真琴がふいに噴出しかけた。危険を察した祐一が慌てて口を押さえる。声を出すな、と目で咎めると、真琴も大きく首を縦に振った。
 斉藤はとても演技とは思えない重々しい声で話を先に進めた。

「それでだ、実はな、それについてなんだが・・・・・・これを見てくれるか」

 斉藤はファックスのような機械に写真を通した。暫くなにやら音がして、写真が出てきた。それはなだらな山地の風景で、木々の間に見える散歩道らしいところに佐祐理の姿が写っている。隣に男の姿があるが、立ち木が邪魔をして良く見えない。

「どうだ、写真を転送したが、行ったか?」
「・・・・・・これは・・・・・・佐祐理か・・・・・・」

 どうやら写真を映像データとして送ったらしい。それを受け取ったらしい久瀬の声はこの上なく弱々しい。

「事が事だけに、なるべく隠密裏にと思ってな。姫里に頼んで撮ってきてもらった」
「強制されている様子は無いな」
「奥さんは自分の意思で行ったらしい」
「一緒に写ってるのは何者だ?」

 久瀬はそれでもまだ、佐祐理を信じていた。いや、信じたかった。相手の名が分かれば事情を推察できるかもしれない。

「分かっていない。旅館のサインは久瀬夫妻となってたが、調べるか?」
「いや、いい・・・・・・、佐祐理が無事と分かればそれでいい。すまなかったな」
「久瀬、難と言っていいか分からんが、奥さんにも何か事情があるんだろう。気を落すなよ」
「ありがとう、斉藤。では」

 久瀬は友人の気遣いに謝意を見せた。

「気にするな、じゃあな」


 斉藤の部屋では、祐一達が腹を抱えて笑い転げていた。

「お前に俳優の才能があったとは知らなかったな」
「認識を新たにしていただこうか」

 斉藤は演出過剰気味に一礼して見せた。

「いやあ、聞いた、久瀬のあの情けない声!」

 膝を叩きながら真琴が息がつまるほどに笑う。

「あの悪徳会長久瀬のあんな情けない声は初めて聞いたわ」
「俺も長い付き合いで初めてだな」

 祐一が受ける。

「久瀬を殺すに刃物はいらない、奥さんよろめきゃそれで死ぬってね」
「うぐぅ、それはちょっと言い過ぎだと思うよ、真琴ちゃん」

 あゆが控えめに非難した。

「言い過ぎというより、問題は文才の無さだと思うんですけど」

 栞は真琴の文才を非難していた。
 まだ笑いが収まらない一同にあゆがおずおずと提案をしてきた。

「もう十分に懲りてるみたいだし、もうこの辺でいいんじゃないかな」
「ああ、あゆ、その甘さがあんたの弱点ね」

 真琴があゆの肩に手を回してその顔に拳を近づける。

「久瀬ののろけに当てられて参ってたのはあんたでしょうが」
「それはそうだけど・・・・・・・」
「なんだあゆ、怖気づいたのか」
「そ、そういうわけじゃないけどさ・・・・・・」

 祐一にまで言われて、はいそうですとも言えないあゆであった。

「北川は?」
「明日で休暇も終るから、今日はもう家に帰ってるわよ」
「何も気づいてないだろうな」
「それは大丈夫だとおもう」

 真琴が保証した。

「久瀬の奴、明日辺りに大急ぎで帰ってくるんじゃない」
「今、奴を傍で見てられないのが残念だな」
「で、この後はどうするんですか?」

 祐一は全員を見まわして言った。

「久瀬は多分、強引に明日、金曜の午後には帰ってくるだろう。仕事を考えれば天野の所に行って事後報告をした後、土、日、月と休暇を楽しむ事になってるはずだ。月曜が結婚記念日だから丁度良いという訳だな」
「で、何時ばらすんだ?」

 斉藤が忙しく口を挟んできた。

「土曜の午後、自宅あてにメッセージが届く事になってる。
『やあ久瀬、結婚記念日おめでとう。佐祐理さんは鶴来屋でお前を待ってるぞ。旅館はおれ達からのプレゼントだ。では、月曜まで楽しい休暇を』
 俺達全員の連名でな。その時になって事情を知った久瀬が腹を立てても、俺達は昼には仕事場や学校を抜け出し、何処かで祝杯をあげてるというわけだ。火曜になれば奴も落着くさ」
「完璧だな」
「かつての風紀委員四天王、『魔討士』久瀬にぶった切られたくない奴は、明後日の昼には逃げ出せるよう算段をつけておくことだな」
「昼には百花屋で会食といきますか」

 栞が後を続け、楽しげな快諾の声と共に、彼らは次々に立ちあがった。

「・・・・・・ふむ、今夜、書類を持ち出して事務所のシャッターを下ろしたほうが無難かな」

 腕を組んで呟いたのは、貧乏探偵の斉藤であった。



 久瀬は予想通り、日程を繰り上げて金曜の午後に帰ってきた。その足で八束神社に赴き、天野峰一に型どおりの報告をした。
 峰一は報告に頷きながらも、久瀬の顔色が妙に悪い事が気にかかっている。

「どうしたんだ久瀬君、顔色が悪いが」
「・・・・・・いえ、少し疲れまして」
「そうか、じゃあ誰かに送らせよう」
「いえ、構いません」

 久瀬は力ない笑顔を見せ、峰一の好意を謝絶した。

 八束神社を後にした久瀬は、重い足取りで自宅に向っていた。この街は初冬が早い。夕暮れが切り裂くような寒気を運び、足取りを更に重くしている。そして、久瀬の家もまた明りも無く、外と同様に寒々とした雰囲気を纏っていた。
 鍵を開け、屋内に入った久瀬は人気の無い室内を見回した。部屋の様子は数日前に自分が出かけた時と変わりない。ただ、愛する佐祐理の姿が何処にも見えないだけである。

「・・・・・・佐祐理・・・・・・」

 久瀬はまだ信じられなかった。佐祐理が自分から離れていくなどという事があるとは。自分は仕事の関係で何ヶ月も家を留守にする事が幾度かあった。だが、それでも家に帰れば何時も彼女は、自分がまるで今朝出掛けたかのように出迎えてくれたではないか。自分は佐祐理と要る時間の何物にも替え難く、貴重なものだと思っていた。そして、佐祐理を自分より大切なものだと思っていた。佐祐理にとっても同じであろうと信じて疑わなかった。少なくとも、自分にはそう見えた。だが、自分が間違っていたのであろうか。
 電話には留守中のメッセージが録音されている旨を示すランプがついている。久瀬はここ数日ですっかり乱れてしまっている髪を掻きまわすと、億劫そうにスイッチに手をやった。

「お帰りなさい、隆之さん」

 義母、真知子の声であった。

「旅館に行く前に寄ってくれて助かったわ。佐祐理に伝えて欲しいことがあるの。この前教えてもらった鶏肉ゼリーだけど、日曜にお客様が見えるので出そうと思ったの。でも、作りかたのメモを無くしてしまったんですよ。せっかく二人で旅行中に悪いけど、作り方を連絡して頂戴。では、楽しんできてね。佐祐理に宜しく」

 久瀬は首を捻った。どうも話が妙だった。彼はもう一度メッセージを再生し、それを聞き直した。それから彼はうってかわった鋭い歩調で家を飛び出した。もう一度初めから考え直してみるべきだった。
 彼は、車で倉田邸に向った。

 その二時間後。久瀬は鶴来屋に向う車の中にいた。窓の外は満天の星空で、見惚れてしまいそうなほどに美しい。
 彼が倉田夫婦に聞いた話では、佐祐理は自分に言われて旅館で待っていると言うのだ。それに祐一が佐祐理について聞きに来た事もないと言う。少なくとも祐一が佐祐理の両親に、佐祐理が何処に行ったか知らないと言われたというのは嘘だ。では、今までの話の何処までが真実で、何処までが嘘なのだろうか。それならあの写真も何らかの仕掛けがあったのだろうか。とにかく旅館に行き、佐祐理に会えば全てが分かるはずだった。
 旅館に着いたのは真夜中であった。やや古い作りだが、厳かな雰囲気の旅館だ。入り口の階段を駆け上がり、フロントの係りを叩き起こす。

「お客様、何のご用でしょうか?」

 不機嫌を押さえ切れない声で、ようやく出てきたフロントの男はそれでも何処にでもいる普通の青年風な男に頭を下げた。

「久瀬婦人という客がいるはずだ」
「はい、いらっしゃいます」
「部屋は何処だ」
「お客様、相手はご夫人です。幾らなんでもこのような時間にお尋ねになるのは、失礼と存じますが」
「私が久瀬だ。部屋は!」

 久瀬はフロントの男の鼻先に免許証を付きつけた。中年のフロント係は一瞬、首をしめられたような顔になる。

「これは、このような時間にご到着とは思いませんでしたので。お部屋は最上階、1002号室です。エレベーターを上がって右側になります。お荷物は?」
「ない!」

 叩き付けるように言い、久瀬は駆け出す寸前の歩調でエレベーターに飛びこんだ。
 1002号室とは、最上階に位置する鶴来屋のスウィートだった。
 凝った古風な感じのする扉をノックすると、すでにフロントから話が行っていたのだろう。即座に扉が開き、薔薇色の頬を微笑に輝かせ、青い部屋着の佐祐理が出てきた。

「あなた、素敵なプレゼントをありがとう」

 佐祐理は仕事に着て行った服装のままの夫に、

「家に戻らないで、直接来てくださったんですか?」
「いや、その・・・・・」
「どうしたんですか、あなた、変ですよ?」

 佐祐理は夫の肩に回した手を離し、その顔を覗きこんだ。

「佐祐理、聞いてくれ。俺はこのホテルを頼んではいない。君がここにいることも知らなかったんだ」
「ふえ?」
 
 佐祐理は、夫の顔を覗きこんだまま絶句した。

「ここの事は義母に聞いて来たんだ」
「そんなおかしなこと。だって私、あなたの手紙を貰って、結婚記念日は旅館でゆっくり過ごそうって。あなたは後から来るから、先に行ってのんびりしていると良いって」
「その手紙は?」
「ええ、ありますよ。ちょっと待っててください」

 佐祐理はいつもと変わらぬ軽快な動作で振りかえり、チェスとの上段から白い封筒を取り出した。

「祐一さんが届けてくださったんです。あなたが出掛けた日の夜に」

 自分が書いたという手紙。それには確かに自分のサインがしてある。だが、こんな手紙を書いた覚えはない。しかしこのサインは・・・・・・・。
 久瀬はようやく自分が“嵌められた”事に気づいた。

「ねえ、あなた、どういう事なんですか。説明してください」

 久瀬は口篭もった。佐祐理が他の男とこの旅館で過ごしていると信じたなどと、口が裂けても言えるはずがなかった。

「いや、ええと、分かったよ。相沢君達がやったんだ。僕が結婚記念日のプレゼントを何にしようかと相談したから、きっと僕を驚かそうとして・・・・・・」
「でも、北川さんは何も言ってませんでしたよ」
「北川! あの男は北川だったのか!」
「あの男って、隆之、知ってたんですか?」
「いや、何でもない! 佐祐理、悪いが急用を思い出した。すぐ帰ってくる。帰ったら休暇いっぱい居るから、もう少しだけ待っててくれ」
「急用って、あなた、ねえ、あなた!」

 すでに久瀬は部屋を飛び出していた。佐祐理は閉じた扉に向って嘆息した。

「私の夫はあんなに慌しい人でしたかねえ〜。まだ昔の癖が抜けてないんじゃないでしょうか」



 土曜日だった。百花屋では祐一をはじめ、真琴、栞、斉藤、あゆ、姫里が中央のテーブルを囲み、勝利のコーヒーや紅茶を飲んでいる。

「メッセージまで、後3時間か」
「久瀬がどんな顔をするか、見られないのが残念ね」
「さぞ地団太踏んで悔しがるだろうな」

 斉藤は肩を揺すって大笑いした。
 離れた所では舟木達がこの大騒ぎを不思議そうに見ている。

「祐一さんと斎藤さんの演技は見事でしたね」

 姫里が軽くティーカップを掲げた。

「姫里もわざわざご苦労だったな」
「同行した連中は災難だったみたいですよ。最後の数日間、久瀬さんは酷く不機嫌だったらしくて、軒並み怒鳴られたそうですから」

 栞が天野から仕入れた情報を披露した。

「気合が入って良いじゃないか」

 祐一が改めて音頭を取ろうと立ちあがる。

「作戦の成功を祝って」
「何の作戦だ!?」

 険しい声が祝宴の場を圧した。彼らは耳を疑った。彼らの記憶に従えば、ここで聞くはずのない声であった。反射的に巡らした視線の先では当の久瀬が全身から怒りの陽炎を立ち昇らせ、時折金色の輝きさえ盛れ出ていた。
 テーブルの面々は口を開けたまま、暫く声を上げることも出来なかった。

「一体何の作戦が成功した祝いだ!?」

 再度久瀬が問いただす。祐一がようやく立ちあがった。

「お前は、休暇じゃなかったのか?」
「ああ、休暇は鶴来屋でゆっくりと過ごすつもりだ。だが、その前にお前達に聞きたいことがあってな。相沢、僕は貴様に手紙を頼んだそうだな」
「ま、まあ、落着けって・・・・・・」

 口を挟んだ斉藤は、鋭い視線に射すくめられた。

「斉藤、姫里も、お前達は北川の顔を知らなかったわけか」
「何の事だ、それは?」
「とぼけるな!」

 真琴が隣の栞の耳に口を寄せた。

「ちょっと、メッセージは三時のはずじゃなかったの?」
「そのはずですけど・・・・・・」
「真琴! 黒幕は貴様か!」

 真琴は久瀬の鋭い剣幕に、とぼけかねて肩をすくめた。

「貴様等、皆で僕を笑い者にしたわけか。大した友人だよ。何が事情があるのだろう、だ! 何が気を落すな、だ! こんな奴らを今まで友人だと思ってた僕が馬鹿だった!!」
「ちょっと、それは言い過ぎでしょう。大体あんたが佐祐理、佐祐理って騒ぐからからかいたくなるのよ」
「おい久瀬、いいかげん気を静めたらどうだ。愛しい佐祐理さんが待ってるんだろう。早く行ってやらないと、それこそ佐祐理さんが愛想を尽きさせかねないぞ」

 皮肉っぽい笑みを浮かべた祐一に、久瀬は全身から金色の輝きを溢れさせ、拳を握り締めた。

「・・・・・・ぶち殺す」
「そうね、手を貸すわ」
「・・・・・・なんで香里がここに居る?」

 カイザーナックルをつけた香里が久瀬の背後から出てきたのを見て、全員の顔が恐怖に引き攣る。ここにいる全員が力を合わせれば久瀬一人になら勝てただろう。だが、香里まで出てきたとなると話が変わる。
 
「久瀬君が家に来てね、いろいろ事情を話してくれたのよ。私も一応主婦だからこういうことはどうにも許せないのよね」
「お、お姉ちゃん、落着いてください!」
「栞、私の亭主を利用した報いをくれてあげるわ」

 そして、乱闘(一方的な殺戮?)が始まった。



 ウェイトレスは慌てふためいていた。警察を呼べばいいのだが、こういう時は咄嗟にそれが浮かんでこない。外に飛び出した彼女は、いきなり誰かにぶつかった。

「ご、ごめんなさい」
「いいよ〜、それよりどうしたの、慌ててるみたいだけど」

 帰ってきたのは妙にのんびりとした声。顔を上げれば、そこにはここの常連客、水瀬名雪がその母と立っていた。

「あの、喧嘩です」
「百花屋で?」
「はい、その、お客さんのお友達たちが、ほぼ全員で」
「・・・・・・・・・案内してくれるかな」

 名雪の雰囲気がにわかに変わった。秋子はいつもながらにこにこしている。ウェイトレスは表情を輝かせると二人を連れて店内に戻って行った。
 店内は凄いありさまであった。香里は頭からコーヒーを被りながら拳を振るっているし、祐一と斉藤は久瀬と足を止めて殴り合っている。舟木と真琴が向うのほうでいろいろ投げ合ってるし、姫里とあゆと栞はいろんな液体や食べ物を浴びてカラフルになりながら転がっていた。
 突然室温が下がった気がして、久瀬は祐一の胸倉を掴んで今にも殴ろうとしていた拳を止めた。
 そして、そこに極低温の声がかけられる。

「何やってるの、みんな?」

 名雪だった。その背後には秋子までが居て何処か困った顔をしている。久瀬は祐一を放すと名雪の前まできた。それを皮切りに次々と喧嘩をしていた面々が集まってくる。その全員の顔を一瞥して名雪が怒鳴った。

「ここは暴れていい所じゃないでしょ!」
「まあまあ名雪、まずは事情を聞いてみましょう」
「う―――っ」

 名雪はまだかなり怒っているようだが、母親には逆らえないのかしぶしぶ引き下がった。そして変わりに秋子が前に出てきたので、全員がまるで首を絞められてるかのように蒼褪めている。

「それで皆さん、どうしてこんな事をしたんですか?」
 
 視線を向けられた祐一は思わず下を向き、真琴は露骨に顔を引き攣らせた。秋子がもう一度聞こうとしたとき、背後から別の声が秋子を遮った。

「間に合いませんでしたか」

 入り口には天野が立っていた。

「・・・・・・天野さん?」
「舟木から急いで百花屋に来てくれと連絡があったので急いできたんですが・・・・・・」
「そうですか、でも何故あなたが?」
「すいません秋子さん、皆さんに代わって私が知っている事情をお話します」

 天野はそう前置きして話を始めた。
 友人たちが久瀬を嵌める相談をしていた事。自分は参加こそしなかったが知っていて黙っていた事。状況から考えるにどうやら友人たちの策謀は成功し、久瀬は佐祐理が他の男と恋におちたと信じ込んだらしい事。そして何らかの理由で久瀬はその事に気づいたらしい事。などを説明した。
 天野の話を聞かされた二人は呆れた顔を見合わせ、久瀬の顔を見た。

「それは本当なのですか、久瀬さん?」
「はい」
「では、あなた達は全員で共謀して、久瀬さんを嵌めたと言うんですね」

 秋子の一見穏やかな、だが嘘を言ったら殺されると確信してしまえる笑顔を向けられた全員は首を大きく縦に振っていた。
 そして、天野もその列に並んだ。

「ですから、私も秋子さんの叱責を受ける立場にあります」
「秋子さん、天野はおれ達に頼まれて黙っていたんです」
「本当ですか?」
「冗談で済む範囲であれば黙っている。そう約束しました」
「あなたの判断はいささか甘かったという事ですね・・・・・・分かりました。天野さんを責めるつもりはないです」
「・・・・・・そうですか」

 天野はあっさりと引き下がった。
 そして、秋子はどうしたものかと全員を見る。

「それでは皆さん、罰は覚悟していますね」
「「「「「「・・・・・・・・・・・・・・・(汗)」」」」」」

 全員が言葉を無くし、縋るような視線を自分に向けているが気にしない。秋子は娘とどうするかを相談し始めた。

「名雪、ないか祐一さん達がしっかりと反省してくれそうな方法はあるかしら」
「う〜〜〜ん」

 名雪はしばし考え、視線を外に向けた。そして、あるものを目にして何かを閃いた。

「いいのがあるよ、お母さん」
「なに?」

 名雪が考案した処罰。それは、人の道に外れたものであった。説明を受けた秋子はそれを了承し、絶望を浮かべる祐一と、よく分かっていない全員の顔を見る。

「それでは皆さん、名雪が迎えに行くまで駅前のベンチに座っていてください」
「午後三時くらいにはいくお―」
「三時、ですか?」

 栞が不思議そうに問い掛ける。秋子はニッコリと頷いた。ちなみに今が午後二時半である

「久瀬さん達は今回は被害者ですから、私達と一緒にここを片付けてくださいね」
「・・・・・・はあ、それはいいですが
「では、これで解散です」

 秋子は皆のよく分からないという顔を完璧に無視してのけ、お店の片づけを始めた。祐一を先頭に嵌めた連中が店を出て行く。それを見送った香里が名雪にそっと問い掛けた。

「ねえ名雪、一体何が罰なのよ?」
「うふふふ、それはね」

 名雪はとても嬉しそうな顔で、外に舞う初雪を見ながら答えた。

「祐一が帰ってきた日なんだよ」
「・・・・・・まさか」

 香里はようやく事情を察して、思わず外を舞う雪を見てしまった。



「雪、積もってるよ?」
「・・・・・・そりゃ、二時間も待ってるからな」

 とてもも辛そうな声だ。問い掛けた女性は可愛く首を傾げている。

「あれ、今何時?」
「五時」
「わ、びっくり」

 全然驚いてなさそうだ。

「まだ四時かと思ってたよ」
「・・・・・・なあ」
「さすが祐一だね。ちゃんと答えてくれたよ」

 名雪はとても嬉しそうに微笑んでいる。そう、この極寒の世界で、それでもまともに名雪のボケに付き合ってくれたのは祐一だけだった。他の人は全員ガタガタ震えるだけでまともに話もできなかったのだから。
 久瀬は凍えてがたがた震えている一同をとても気持ちよさそうに見回した。

「はっはっは、まさかこういうお仕置きがあるとはね」

 楽しそうな久瀬に斉藤が話しかけた。

「なあ久瀬、月宮はお前に同情して作戦の中止を主張したんだ。いいかげんに勘弁してやれ」
「ううん、いいよ。最後まで付き合うから」

 この後にいたっても律儀なあゆだった。
 祐一が雪の降り積もった頭をあげ、久瀬にどうしても知りたかったことを問い掛けた。

「なあ久瀬?」
「んあんだい、相沢君?」
「俺達は今日の午後三時にお前の所にメッセージが行くようにしてたんだ。どうしてそれより先に分かった?」
「家の電話に義母さんのメッセージが入ってたんだ。それで疑問に感じてね、義母さんにいろいろ聞いたのさ」
「・・・・・・それは、予想外でした」

 栞が悔しそうに呟いた。
 このあと、ようやく怒りが解けた久瀬の奢りで温かいものを食べた一同であった。もちろん、二度とこういう事をしないと硬く約束させられたうえでの事であるが。

 こうして、久瀬を襲った最大級の災難は、関った人間の大半が不幸になるという結果で終結した。結局、悪い事は出来ないという事なのだろうか。
 だが、真に不幸だったのはこの二人だったのかもしれない。

「台詞どころか、人物としての出番がなかった」
「はちみつくまさん(泣)」

 


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