キーンコーンカーンコーン

 今日最後の授業が終わるチャイムと共に、それまで黒板を書いていた教師はチョークを走らせるのを止めた。
「今日の授業は終わり。美坂、挨拶」
「起立」
 香里の掛け声が掛かると、生徒達は一斉に席を立つ。
「礼」
 生徒達が頭を下げ、それを見た教師は教室を出て行った。
 それと同時に担任の石橋が教室に入ってきた。
「……終わり」
 教室全体を一瞥すると、その一言を残し教室を去っていく石橋。
 相変わらず大雑把というかいい加減な担任である。
「アレで教師が勤まっているかと不思議に思わないか? 北川」
「さてな。しかし中々クビにならない所を見ると、勤まっていんだろ。不思議な事に」
「担任に失礼よ、二人とも」
「うにゅ」
 担任が去っていった後の教室は、これから放課後をどう過ごすかで賑わっていた。
 一人でとっとと帰る者、一緒にどこかに寄ろうかとはしゃぐ者、部活に行く者等々……
 その中で、美坂チームは教室に留まり喋る者達に属していた。
「名雪、部活は?」
 香里が約5分の4寝ている名雪を揺さぶりながら、これからのことについて質問する。
 名雪はこう見えても運動神経が良く、陸上部で部長と言う立場を持っている。
 普段の行動からは全く見て取れないが、今日の朝の用に登校の時にその地位を垣間見せていたり。
「うにゅ、今日は休みだお〜」
 いまいち信頼できないという視線を投げる香里。祐一も同じらしい。北川も同様。
「みんな酷いお〜」
 名雪が寝言で鋭いところを突き、3人ともビクッと跳ねさせる。
「名雪、帰るぞ」
 動揺を誤魔化すかの様に祐一は席を立った。
「ぉ〜」
 片手を上げて返事をする名雪。彼女には寝ながら行動と言う類稀なる特技がある。
「じゃな、北川、香里」
 祐一は鞄を片手に、名雪の腕をもう片手に持ちながら教室を出て行く。
「車には気をつけろよ〜」
「それじゃあね、名雪」
 祐一たちに手を振る香里と北川。
「くー」
「寝るな!」
「ぅ、痛いよー、ゆういちぃ〜」
 廊下ではそんなやり取りがフェードアウトしていた。


「さて、と。俺も帰るか」
 しばらく香里と談笑していた北川は、教室の時計を見ると鞄を持ち席を立った。
 教室にいる生徒もまばらになってきている。
「あら、帰るの」
「おう。美坂はどうする?」
「そうね……部活に顔を出しておこうかしら」
 そう言うと、北川と同様に鞄を取って席を立つ香里
「なぁ、美坂」
 ふと北川が振り返りながら後ろにいる香里を見る。
「なに? 北川君」
 前に垂れてきた髪を掻き揚げながら、返事をする香里。その仕草は異様に香里に合っていた。
「結局部活って何やってんだ?」
「…………」
 少しの沈黙を落としたあと帰ってきた答えは
「秘密よ」
 だった。

 教室を出て昇降口に向かって一緒に歩く2人。
 なぜかさっきまでとは打って変わって沈黙が二人を支配してる。
「…………」
「…………」
 二人とも何も喋らず、ただ前を向いて歩いてる。
 北川はその静かな場に居心地悪い感覚を抱いていた。
(どうしたんだ……美坂のやつ。なんかいきなり黙って)
 しかし自分から切り出すことも出来ないまま、昇降口まで行き着いた。
「それじゃあ私は部活に行くわね」
 今の今まで流れていた沈黙を打ち破ったのは、そんな何気ない言葉。
「あぁ、じゃぁな。美坂」
「……ねぇ、北川君」
「ん?」
 北川は昇降口の靴入れから靴を取り出そうとして止まる。
 それと同時に香里の方を向いた。
 しばらくの沈黙が再び2人を包む。
「……何でもないわ。それじゃあ、さよなら」
 香里はそう言うとたっ、と走り去っていった。
 北川は靴を持ったままその場で首をかしげる。
「一体なんだったんだろ」
 そうつぶやくと、靴を履き替えて昇降口を出る北川。
 外はまだ雪が積もっていた。空も雲がかかり灰色に覆われている。
「雪が降らなきゃいいが……」
 北川は白い息を吐きながら校門へと歩いていった。



「寒いなぁ……」
 少し人気が無くなり始めた商店街を、北川は一人雪が降る中傘を差しながら歩いていた。
 学校を出てから間もなく雪が降り始め、商店街の歩道にもうっすらと雪が積もり始めている。
 ふ、と空いた手で眼鏡のずれを直す。
 北川は、自分が相変わらず昔と同じ癖を持っていたことに苦笑した。
「眼鏡掛けなくなって2年位経ったのにな……そう簡単には忘れられないものか」
 その一言は、自分の癖に対するものか。それとも過去に自分を思ってくれていた女性に対するものか。
 そのどっちつかずな呟きの後、ちょっとしたアクセサリー屋の前で立ち止まった。
 何の変哲もない、男女どっちのものでもありそうなお店。
「そういやもうそろそろ美坂の誕生日だよな……」
 思い出す香里の誕生日は3月1日。今学校ではほとんど見かけることの無い3年生の、卒業式がある日だ。
 自分が社交的な性格になってからは、友人の誕生日やらはチェックしていた。
美坂チームのメンバーはもちろん、クラスで仲のいい斉藤などのそれも知っている。
 その理由は、もう後悔したくないから。ただそれだけ。
「何か似合うものないかなぁ……」
 アクセサリーの棚を覗きながら、品定めをしていく。
 しかし、なかなか決まらない。北川はファッションに疎いわけでは無い。
 ただ、ファッションに拘る故に決まらないだけだ。
「何をお探しでしょうか?」
 品のよさそうな女性の店員さんが話しかけてくる。
 どうやらうんうん悩んでいるのを見て声をかけてきたらしい。
「ええっと、誕生日プレゼントなんですが……」
 北川はガラス棚の中にあるいくつかのペンダントから目をはずし、店員の対応に答えた。
「どのようなお方でしょうか?」
「えっと……こう、ちょと高飛車で、委員長しているって感じの娘です」
 北川はそう声に出した後、少し誇大に言ってしまったかなと思った。
 確かに彼女の一部を確実に指摘したものではある。
「それならば……ちょっとお待ちくださいね」
 女性店員はそう言うと店の奥に行き、何かペンダントらしき物を持ってきた。
「これなんてどうでしょうか?」
 その手に優しく置かれていたのは銀のペンダント。その細いチェーンの間に小さな十字架が付いている。
 その十字架は透明度の高い、向こう側が透けて見える赤色をしていた。多分何かの宝石だろう。
 その十字型の宝石の周りにシルバーの縁取りがしてあり、それとチェーンが繋がっている。
 見た目も綺麗で、かつ派手でないデザインだ。
 北川はこれを身に着けて喜んでいる香里を思い浮かべる。
(……似合ってるかな)
 北川は店員さんのセンスに感謝しながら、このアクセサリを買う事に決定した。
「すいません。お幾らですか?」
「はい。これは……」
 その値段を聞いて、北川は今日の財布の中身をほんの一瞬心配する。
(まぁ、ちょっときついが……)
「これにします」
 決断はすぐにした。北川はこういう物で迷ってしまうのが嫌いだからだ。
「はい、ありがとうございます。包装いたしますか?」
「あ、お願いします」
 そう言うと、店員さんはレジに行ってレジの後ろにある机で包装を始める。
「メッセージカードはどういたしますか?」
 北川はその言葉に、一瞬眉をしかめるが丁重に断った。
「ありがとうございました〜」
 店員さんの言葉を背中に受けながら、手にした長細い箱を鞄の中にしまう。
「これでOKっと」
 そうすると、北川は商店街を出て自分の家へと歩を進めた。
 いつの間にか雪は地面が見えなくなる程度に積もっている。
 北川はその道路を何の気なしに歩いている。
「美坂これ渡したらどんな顔するのかな」
 自分が一瞬思い浮かんだのはまぶしいぐらいに明るい笑顔。
 いつものクールな表情からこのような想像は、
「ちょっと違和感あるかも」
 という感想だった。
 と、一人小さな笑いをしながら交差点の横断歩道を渡った。


 プルルルル
「はいはい」
 水瀬家の電話がけたたましく鳴る。
 名雪は船を漕ぎ、秋子は夕食の買出しに行っているため、電話に出るのは居候の祐一しかいない。
 ガチャ
「もしもし、水瀬ですが……」
 祐一も最初はこの対応に違和感を覚えていたが、今では水瀬と言うことに違和感を感じなくなってきていた。
 彼は引っ越してから1ヶ月と少しの間に、非凡なる適応能力を発揮していた。
「おぉ、香里か。どした?」
 電話の相手が自分の友人だと知り、祐一はいきなり砕けた口調と表情になった。
 しかし、その顔は瞬く間に険しいものとなる。
「あぁ、それで……分かった。そこだな」
 電話を切ると祐一は部屋に戻り、コートを羽織って玄関に行く。
「うにゅ、どーしたの祐一」
 眠い目を擦りながら、名雪が居間から出てくる。どうやらいきなり騒がしくなったために目を覚ましたらしい。
「あぁ、実はな……」
 この次に祐一から出てきた言葉は、普段寝起きが極悪に悪い名雪を一発で目覚めさせた。



「北川が……事故にあった」




 ここ……は

 北川は自分の目を開けると、体を起こしあたりを見回す。
 そこに移るのは闇。目を開けても閉めても変化が無いほどの闇。

 俺……は

 なぜか声が出ない。出ないというよりも出しているのに響いてないという感じだ。
 しばらく何も写らない自分の周りをきょろきょろしていたが、ふと思い出した。

 そうだ、俺……事故に会ったんだ

 ちょうど交差点の横断歩道を曲がった瞬間、あからさまなオーバースピードで曲がってきた車が視界に入ったのを覚えている。
 北川は自分がその車に撥ねられたのだろうと思った。実際その様な記憶は無いが。

 じゃあ……ここは地獄かな。天国には見えないし
 違うよ

 ふと、どこからか声がした。北川は驚いた。自分の声と同じく響かないのにどこからとなく声が聞こえた。
 まるで、自分の頭に直接言葉が伝わっているみたいに。

 誰だ?
 忘れたかな、潤ちゃん

 北川はぎょっとした。その呼び方をするのはこの生涯17年間の中でただの一人しかいない。

 下塚か
 あたり

 そうの声が聞こえると同時に、目の前に眼鏡を掛けた、少し背の低めの短髪な少女が現れた。
 その少女の名は下塚麻里。北川にとって忘れることの出来ない人である。
 彼女は昔の中学校の制服を着ている。北川も自分の服を見てみると、昔の制服だった。
 懐かしい服。昔のまま何も変わっていないような錯覚さえ受けてしまう。

 ひさしぶりだね
 そうだな

 北川は再開の挨拶と共に腰を上げる。地面は見えないが確実にそれはあるようで、足裏に硬い感触が伝わる。

 とりあえず何から聞きたい?
 そうだな……とりあえずここはどこだ?
 ここはね、なんていえばいいのかな。幽霊の世界みたいなもの

 その一言に北川は眉を顰める。あからさまに怪しむように。

 信じられないって感じだね。じゃあ私はどう説明する?

 無邪気に聞いてくる麻里を見て、北川は思わず苦笑をもらした。

 確かにそうだな。
 でしょ

 昔とまったく同じ笑顔を返す麻里に、北川は心がぎゅっと締め付けられる。
 もう見られる事は無いと思っていた笑顔。
 ずっと傍にいて欲しいと思っていた笑顔。
 今なら、傍にある。傍に居られる。

 だめだよ。そんな考え方しちゃぁ。私はもういないんだよ

 自分の考えを見破られ、目を見開いてドッキリする北川。

 まさか……無意識に言ったか?
 いいや。でも分かるよ、これくらいの事
 そっか、分かっちゃうか

 そういって北川は再び苦笑する。一瞬親友の持病が思い浮かび、ほっと安心した。
 彼に対して失礼かもしれなかったが。

 じゃあ、何しに来たんだ。一体
 ……ようやく本題に入れた

 そう言うと、両手を思いっきり広げた。まるで屋上で風を体いっぱいに受けるみたいに。

 まずはこれを見て

 その一言と共に、視界に一気に光が充満した。
 北川はその眩しさのため、とっさに腕で視界を覆う。

 もう良いよ。目を開けて。

 その声と共に北川は目を開いた。目の前に移るのは、何かの廊下だ。
 ただ、視線はほぼ天井近くにあった。
 学校の廊下でないのは天井と少しちらつく蛍光灯の形等から分かる。

『香里!』

 北川は下からの声にびっくりして視線を向ける。
 その視線には、見慣れた人たちが立っていた。
 北川の両親。母親はは父親にに弱々しくもたれかかっている。父親はその肩を抱きしめていた。
 相沢祐一と水瀬名雪。今は廊下の先を向いている。
 そして、祐一と名雪の視線の先。
 美坂香里。普段は絶対しないような心配そうな表情を浮かべながら、祐一たちの元に走ってきた。
『名雪、相沢君! 北川君の容態は!?』
 必死に息を整えながら、二人に詰め寄る勢いで2人に質問を投げ掛ける。
『まだ……分からないんだよ』
 そういって向けた視線には『手術中』の赤いランプ。
『北川……』
 祐一も同じ場所に視線を向けながら祈るように呟く。
『潤……潤……』
 母親もただひたすら祈るように呟きながら、父親の胸に顔を埋めている。
『大丈夫だ……潤なら』
 その肩をしっかり抱きながら、必死に自分の妻を励ましている父親。
『もし……もし……』
 香里は悲愴な表情で、膝をつく。呟く言葉は今の状況から考えられる最悪の場合。
『そんな事言うな!』
 祐一はそれを怒声で止めた。
『だって、まだ……私……』
 そう言って見上げた目には、たくさん零れ落ちる涙。
『自分の気持ちさえ伝えてない……北川君に』
 突然の告白。
 しかも、こんな異常な状態で聞くとは北川も思っては無かっただろう。
 北川は片足を振り上げ、思いっきり地面と思われる場所に思いっきり叩きつける。
 帰ってきた感触は、道路のアスファルトや硬い学校の廊下と何の変わりもなかった。
 少し足に痺れが走る。
 北川は自分の無力さに憤りを感じる。
『大丈夫だ、奇跡は起きる』
 そう言って祐一は姿勢を下げ、香里の肩に手を置いた。
『奇跡ってのは必死に思えば叶うものだ』
『でも……』
『でもでもかもでもない。今は祈るんだ。そうしないと起こる奇跡も起こらない』
 そう言うと香里の肩から手を離し、視線を上げ赤い光を睨み付ける。
『俺は祈る。必ず奇跡は起こると……祈りは叶うと信じて』
『私も』
 今まで二人のやり取りを見ていた名雪も声をあげた。
『信じる。祈るよ。だって、そうするしかないもん、今は』
 その目には、確かな意思を持った光があった。
 二人を見上げていた香里も、すっと姿勢を上げた。
『分かったわ。私も祈る。必ず助かると信じて。私の気持ちも伝わると信じて』
 そういって3人はそれぞれ両手を組み、祈りを捧げる。
 自分の大切な親友の為に。自分の大切な仲間の為に。
 自分の一番大切な人の為に。

 潤ちゃん、見たよね
 あぁ、見た

 下げていた視線を再び前へ戻す。

 それで、一体何がいいたんだ、麻里は

 少し荒げたトーンで言葉を放つ北川。
 今彼は自分の力が及ばない世界に居ることに、腹をたてている。

 ……これを見たら思うよね。生きたいって
 あぁ、もちろんだ

 何よりも自分を必要としてくれている人達を目の当たりにした。
 これで、生きたくないと思う事は北川には出来なかった。

 ……大丈夫。潤ちゃんなら生きていける。でも……

 そう言葉を切ると、麻里は静かに北川に近寄っていった。
 つま先が触れ合うほどの場所で止まると、踵をあげ鼻先が触れるほどに近づいてきた。
 今までに一度も近づいた事の無い距離にドキッとする北川。
 そのままにこっと笑顔を浮かべる麻里。

 これはいらないよね

 そう言うと北川の眼鏡をさっと抜き取った。
 北川は以外にも、眼鏡を取られるまで自分があの眼鏡を掛けていたのに気付かなかった。
 眼鏡を取られた視界は、ぼやけることなくはっきりしている。
 北川は、現在は幽霊のような状態だからだろうと無理矢理納得した。

 これはいらないって……
 香里だったっけ、彼女の名前。

 今も必死に祈りを捧げている香里に視線を向けた。

 潤ちゃんも好きなんでしょ、彼女
 ……分かるか、やっぱ

 北川はバツが悪そうに頭を掻く。

 言ったでしょ。分かるって。潤ちゃんが私のことで彼女とうまく距離をとっている事も

 その一言に、北川は真面目な顔になった。

 それは……そうだな。間違いない

 今日の屋上でも言った通り、彼女がまだ吹っ切れない為に、香里と上手に距離をとっていた。
 離れず、付かず。
 そうやって今までの友人関係を保ってきた。

 私への想いはもう忘れて。その為にこの眼鏡はもういらないよね

 そう言うと麻里は制服のポケットに丁重に眼鏡を入れた。

 私が潤ちゃんに似合うって思って作った眼鏡だったけど……これが枷になっちゃったね

 そうやって笑った彼女の表情は、今までの笑顔とは違い悲しみを纏っていた。

 俺は……忘れない。忘れられないさ

 まったく動かなく、声も出さなかった北川は重い口を開いた。

 そんなこと言っちゃ駄目だよ。私に縛られているのは駄目。だって、もう私は
 忘れない。でも、もう縛られやしないさ

 彼女の声を塞ぐように声を言った。彼女の目が大きく開かれる。

 今日会って思ったよ。やっぱりお前が、麻里が好きだって。今でも
 ……え……

 麻里は一瞬分からないと言うような声を出した。表情も目を開いたまま固まっている。。

 でも、香里が好きだ。今の麻里以上に

 その瞳は、先ほどの名雪と同じ、揺らぐことの無い強い意志の光があった。

 そっか……よかった

 麻里はホッと胸を撫で下ろした。それと同時にパタ、と音が聞こえた。

 あれ……私……泣いてる

 麻里は泣いていた。自分自身でも何故か分からないようだ。
 必死に袖で涙を拭おうとするが、後から後から涙が流れてくる。

 あれ……あれ……なんで……あれ?

 うろたえた表情で涙を拭く麻里を見て、北川は麻里を抱きしめた。
 麻里はいきなり抱きしめられて、涙が溜まり零れている目を再び大きく開いた。

 潤、ちゃん……
 麻里、最後のお別れに……これぐらいは許してくれ

 そういって抱きしめる腕に力を込めた。今までの想いをすべて乗せて。

 うん……

 麻里も北川の胸に顔を預けると、北川の背中に腕を回して抱きしめた。
 2人は今までの思い出を思い浮かんでいた。
 楽しかった、中学時代。
 自分の夢を必死に追いかけた麻里。
 それに嫌々付き合いながら、それに連れ夢と共に恋を覚えた北川。
 その思い出が想いが2人の間を行き来していたように、2人は思った。
 間違いなく、2人は今は繋がっていると。

 ガチャ

 下からドアが開く音が下のをきっかけに、2人は離れ下を向いた。
 そこにはベッドに寝ている北川と、手術室から出てきた医師、その医師に詰め寄る両親と友人がいた。
『先生、潤は、潤は』
 必死に北川の状態を聞く母親。
『大丈夫です。命に別状はありませんし、怪我も骨折程度で済んでいます』
 その一言にホッと肩を撫で下ろす6人。
 北川もその一言に安堵を覚える。
『ただ……』
 まだ続く医師の言葉に、再び6人とも息を止める。
 空気に緊張感が漂った。
『頭を打ったせいか、まだ意識が戻りません。いつ戻るのかも不明です』
 その一言に、母親の顔色は一気に青ざめる。
『まさか……二度と目覚めなくなるなんてことは……』
 その言葉にさらなる緊張が走った。
『それはまず無いでしょう。それほど酷いものではないですから』
 再び安堵のため息を6人は漏らした。
 北川もさっきまで張り詰めていた気分が解れるのを感じる。

 よかったね
 ……で、どうすれば戻れるんだ? 俺は

 北川は安心したのも束の間、心配な面持ちで麻里に話しかける。

 詳しいやり方は知らないよ。本当にそうなるかも分かんないし

 軽々しく答える麻里に、冷や汗をたらし始める北川。

 じゃあ、どうすればいいんだよ……
 簡単。今まで彼女達がやっていたことをすればいいのよ
 へ……
 信じること。奇跡は起こるんだって。自分はもとの体に戻れるんだって。信じるの
 信じる……

 北川は視線を下に向けた。それは今まで必死に祈っていた祐一、名雪、香里の姿がある。
 北川はそのまま目を閉じた。

(俺は……もとの世界に戻るんだ……出来る。いけるさ)

 目を閉じたまま、ひたすら元の世界に戻ることを祈る北川。
 思い浮かべるのは、両親や親友の顔。
 そして、今一番想っている相手の顔。
 いつの間にか北川は自分が戻れないと疑う気持ちが無くなっていた。
 もとの世界に戻る。その想いだけが自分を埋め尽くす。
 ふ、と自分の体が軽くなったような感覚が襲ってくる。
 足裏に感じていた地面の感触もだんだん少なくなってきている。

 うまくいったみたいだね

 少しずつ浮き始める北川に近寄りながら、穏やかな笑顔を浮かべていた。

 あぁ、これで本当にお別れだな
 そうだね

 本当に簡単な別れの言葉。
 さっき、ほんのひと時でも繋がっていられた2人からすればこの様なものでいいのかもしれない。
 北川の足はもう踵が浮き始めている。麻里は先ほどと同じような距離まで近づいていた。

 でもね、潤ちゃん。
 ん? なんだ下塚
 なんか、香里さんに一方的に取られるって感じがするから

 そう言うと、麻里はすっと背伸びをする

 ちゅ

 な……
 ファーストキス。いただき

 唖然にとられる北川をよそに、すでに体はつま先が地面に付く程度まで浮いていった。
 体もいつの間にか透けていた。もう体を通り越して向こう側の景色が見えるくらいに。

 ほんとうにさよなら
 あぁ、さようなら

 そうやって白く薄れる視界に見えた最後の彼女の顔は、


 目に涙を湛えながら、思いっきり明るい笑顔だった。



「ん、あ……」
 北川は何かから浮き上がるような感覚を覚え、目を開ける。
「ここ、は……」
 視界に飛び込んできたのは、白い天井。今さっきまでほぼ同じ視線にあったものだ。
 どうやらここは病院の個室のようだ。先ほど自分が運ばれているのを見ている。
「あ、あなた……」
「潤!」
 横からの声で体を起こそうとするが、酷い痛みが足に走る。
「!……ったぁっ」
 起こしかけた体を倒し、足に手を伸ばした。
 固い感触が手に伝わる。北川の足にはギプスが嵌められ吊るされていた。
「痛ったぁ……」
「潤、よかったぁ〜」
「潤、心配したぞ〜」
「だぁぁぁぁぁあっ、痛い!」
 感極まって飛びついてくる両親の衝撃がダイレクトに足に繋がり、それがダイレクトに痛みに繋がる。
「潤、潤……」
「よかった、よかった」
 目に涙を貯めながら必死に抱きついてくる両親を見て、ふっと頬を緩ました。
「もう大丈夫だって、親父、お袋」
「あぁ、そうだな……姫里」
「はい」
 そういってようやく北川から離れる両親。
「ううん……相沢や水瀬、美坂は?」
 ガチャっとドアが開く音がする。
「おう、北川。目覚めたか」
「あぁ、相沢」
 そう言って軽い握手を交わした。
 その後ろには名雪の姿がある。
「よかったよ……北川君……ほんとに……」
 目にたくさんの涙を溜め、本当にうれしそうな表情を北川に向ける。
「ありがとう、水瀬さん」
 北川は自分がこれほどの人に心配されていたと思うと、申し訳なさとうれしさが同時にこみ上げてくる。
 目に熱いものがこみ上げてくるのを堪えて、北川はいつも通りの笑顔を友人達に向けた。
「なぁ、美坂はどこにいるんだ?」
「お前、なんで香里がここに居ることを知ってるんだ?」
 その言葉に北川はしまったと思った。
 さすがに自分が幽体離脱みたいな体験をしたなんぞ、誰も信じてくれないだろう。
 この友人達は無条件に信じてくれそうだが。
「いや、お前らが居て美坂が居ないのは不自然じゃないか?」
 なんとか思いつきでその場を凌ごうとする。
「……まぁ、そうか。今は廊下で舟漕いでる」
 祐一は廊下を親指で指差しながら答える。
 どうやら北川のごまかしは効いたようだ。
「そっか……親父、お袋」
「何だ? 潤。」
「何?」
 北川は目が覚めてから気になった事を聞いた後、部屋から自分以外を外に出した。
「よっし、これで……」
 北川は準備を終わらすと、ドアに向かって声をかける。
「いいぞ、美坂」
 その声と共に、静かにドアが開いた。
 開いたドアの場所に、少し憔悴した顔が北川の心に突き刺さった。
「あ……」
 美坂は俺が銀縁の眼鏡をしている事に少し驚いたらしい。
「あぁ、この眼鏡な。俺が持ってるもう一つの眼鏡なんだ」
 北川はそうやっておどけた表情をしながら、人差し指で眼鏡を押し上げた。
「似合うかい?」
「…………」
 香里の表情が幾分か柔らかくなった。いつもと変わらない態度に安堵感を覚えたのだろう。
「……あの眼鏡は?」
「あぁ、そこ」
 北川は自分の近くにある棚を指差した。
 香里はそれを見てはっと息を止める。
 その茶色い縁の眼鏡は、レンズが粉々に砕け無くなり、フレームも歪んでないところがないぐらいだ。
 もう使い物になるとはお世辞にもいえない状態。
 北川は自分がそれなりに大きな事故に会ったことを再確認させられた。
「……大事なものだったのに……」
 香里が眼鏡から視線を逸らさずにそう呟いたのを聞いて、首を傾げた。
「なんで美坂が知ってるんだ? その事」
「え……あ……」
 香里がしまったという顔をする。
「…………」
「…………」
 2人はずっと相手を見て、黙ったまま少し過ぎた。
「ごめんなさい。屋上の話を……」
「あぁ、聞いてたのか。あれ」
 北川はちょっと苦笑しながら頭を掻く。
「ごめん……なさい」
 美坂は弱々しく頭を下げる。
「いいって、これから言おうとしてたんだ。手間が省けたし」
 そう言われて、香里は不思議そうな顔で頭を上げる。
「それって……」
「じゃあ、下塚麻里の事は知ってるよな」
「え、ええ」
 そう言いながら香里は不安そうに髪を掻き揚げる。
「あぁ、そこに座って。ちょっと話があるし」
 香里は勧められるがままに病室にそなえられているパイプいすに座った。
 北川のすぐ隣には香里の顔がある。
「事故ってからの話なんだがな……」
 そう切り出して、北川は自分の不思議な体験を掻い摘んで話した。
 省いたのは、キスをされたことと香里への恋心。
「……と、こんなとこかな」
 北川は大方の事を言った後、ひとつ大きなため息をついた。
 ずっと喋っていたため、結構疲れたのだ。
「そんな事が……」
 香里は信じられないといった表情をしている。
 その表情を見て、北川は肩を軽く竦める。
「まぁ、俺も信じられないけどな」
「……それで、何が言いたいの?」
「ん?」
「私だけこの部屋に読んで、こんな話を私だけにする理由よ」
「なんで話したのが美坂だけだと思うんだ? 相沢や水瀬に話したかも知れないぜ」
 今度は香里が肩を竦めた。
「それなら相沢君や名雪を外に出したりしないでしょ」
「まぁ、そうだ」
「で、理由はなんなのよ」
 ちょっと前のめりになりながら問い詰めてくる香里を見て、北川は微笑を漏らした。
「な、何よ……」
 いきなり笑われて、一瞬たじろぐ香里。
「ちょっと目瞑ってくれるか?」
「何する気よ……」
 香里は半目でにらんでくる。その凄みに北川もちょっとたじろいだ。
「いいから、変なことはしないって……たぶん」
「……はぁ、分かったわ」
 そう言って香里は姿勢を正し、顎を引いて目を閉じた。
「但し、変なことしたら承知しないわよ」
「はいはい、もうちょっとこっちに寄ってきて」
 そう言われ、香里は椅子を動かし北川に近づいた。北川の手の届くところに香里の顔がある。
「よいしょっと」
 北川は布団の中からちゃらっと音の出る物を取り出すと、香里の方に体を乗り出す。
 骨折した足のせいで上手く体が動かないが、なんとか香里の首の後ろに手を回した。
 びくっと一瞬体を硬くする香里。
 北川は香里の首の後ろで何かを終えると、体を離すついでに顔を近づけた。

 ちゅっ

「え……」
 香里はその感触に目をぱっと開いた。北川は素早く体勢を元に戻す。
「あ……」
 香里は自分の首に伝わる冷たい感触から、自分がペンダントを着けられた事に気付いた。
 赤い十字架。いつの間にか昇っていた月に照らされ、綺麗に光っている。
「かなり早めの誕生日プレゼントだ。感謝しろよ」
 そう言って北川は赤くなった顔を隠すように視線を逸らせた。
「北川君……」
「ハイ……」
 香里のいつもより低いトーンの声に、北川はぎぎぎと首を共に戻す。
「…………」
「…………」
 香里の迫力ある睨みに、北川は冷や汗が吹き出してくる。
「ねぇ」
「ナンデスカ」
「……今度は北川君が目を瞑りなさい。歯も食い縛って」
 その一言に、北川は素直に従った。
 目を思いっきり瞑り、歯を軋む程に食い縛る。
 少しした時間の後

 ちゅっ

 北川は唇に感じた感触に驚いて、目を開いた。
「あ……美坂……」
「…………」
 香里は、思いっきり顔を横に向けていた。
 しかし、長い髪から覗く耳が思いっきり赤い。
「美坂……俺……」
 北川は香里のそんな横顔を見ながら、震えた声で告白を始めた……

 おい、名雪押すなよ
 祐一、しーだお
 潤、いけ、もう少し
 ドキドキ

 と思ったが、外から聞こえる声にその気分も萎えてしまった。
 香里もそうらしく、なかなか爽やかな笑顔を持ってドアの元まで歩いていった。

 ガラッ

「どわっ」
「あっ」
「おぉっ」
「きゃっ」

 それと共に病室になだれ込んで倒れる2組の男女。
「…………」
 香里はその4人をなかなか爽快な笑顔で見下ろしていた。
「えっとだなぁ、その……名雪」
 名雪の肩を叩く祐一。
「えっとねぇ……北川のおじさん」
 北川の親父の肩を叩く名雪。
「そうだなぁ……姫里」
 自分の妻の肩を叩く夫。
「……おじゃました〜」
 その声と共に脱兎の如く逃げ去って行く4名であった。

「はぁ……」
 大きな溜め息をつきながら、香里は再び席に戻った。
「くっ……くくく……」
 北川はさっきからずっと必死に笑いを堪えていた。
「笑わないでよ、北川君」
「だってさぁ……あれ見ただろ」
「はぁ、ムード台無し……」
 そう言って香里は頭を抱えた。
「関係ないって。俺は美坂が好きだしさ」
 さっきまで緊張していた気分がなくなったせいか、北川はあっさりと告白してしまった。
「……いまさら隠したって意味無いわね。私も好きよ。北川君」
 香里も同じく、にこやかな笑顔であっさり返事をを返してしまった。
「台無しだな」
「台無しね」
 そう言って、北川と香里は思いっきり笑った。
 もう月が出るぐらいの夜だから、その様な大声を出せばこっぴどくしかられるであろう。
 だが、2人は大声で笑った。
 夜の空には大きな満月が昇っている。

 北川は病室の窓から見える満月を見て、自分が変わったことを感じていた。
 麻里のことは忘れられないが、これからは思い出に出来ると思っている。
 いつか本当に思い出に出来たときは、この目の前にいる女性にプロポーズをしようと思った。
 それまでは、自分の気持ちをちょっとづつ整理していこう。
 そう決心に決めた。

 満月の光を受けて、歪んだ眼鏡は淡く光っているようであった。


Back to the top? or side story?