今は昼休み。普通の高校せいである俺、北川潤は儚き戦場(売店)の戦利品(パンとジュース)を両手に持ち、勝利の快感に酔っていた(昼飯を食っている)。
 前には相沢、隣には美坂と水瀬さんが同様に勝利の祝杯を挙げていた(一緒に昼飯中)。
 俺はパンをあらかた食べ、今はジュースを喉に通しており、相沢はサンドイッチを食べている。
 ……さっきのはいったん棄却しよう。水瀬さんは寝ていた。豪快にいびきは立ててないが、熟睡している。
 相沢曰く絶対9時より前には寝ているらしい。本当に寝ているのか怪しいモノだ。
 と、俺の視界にとある女子生徒が見えた。確かクラスメイトだった記憶がある。あまり接触した記憶はない。
 彼女はどうやらこっちに向かってきているようだ。その顔は何か決心しているようになったので少し気になった。
 ジュースを飲んだまま彼女の方を凝視する。彼女のその視線に気付いたか、こっちに向かってくる歩調を強めたようだ。
「どーした、北川」
「あ、あの……」
 相沢が俺の態度の変化に気付き声を掛けるのと、彼女が俺らの所まで来て声を掛けるタイミングか重なった。
「お……」
 どうやら相沢はここまで近づかれてようやく彼女の存在に気付いたらしい。ずっと窓の外を向いているから当然といえば当然だが。
 まぁ、空をぼぉっと見たくなるほど今日はいい天気ではある。
「何?」
 俺はいつもの軽い返事で彼女に接した。大方先生か誰かに伝言を頼まれたのだろう。視界の先に美坂が見える。サンドイッチを食べている様だ。
 しかし、次に来る言葉は俺の知る限りの常識を逸脱していた。
「……私と……Hしてくれませんか?」


北川君のH!



 ブッ ゴッ ぐっ にゅ?
 俺は飲んでいたジュースを吐き、美坂は机に額をしたたかにぶつけ、相沢はどうやら横でパンに喉を詰まらせ、水瀬はこの一瞬の効果音に目が覚めたらしい。
「ゴホッ……な、なんて……?」
 あまりの出来事に俺はいまだ現実を受け入れてなかった。なので、もう一度確認のために聞いてみた。が、
「だから、私と……Hしてください」
 自爆だったようだ。ちらと横目で見たが、相沢は自分の首を掴みながら、なかなかヤバイ顔色をしている。俺はジュースを奴によこすと、一息呼吸をすると共に彼女を見た。
 背は普通……多分160そこいらだろう。顔は……美坂や水瀬さんほど美人と言うわけではないが、それでも十分可愛い。
 髪もロングを大人しめなポニーテールで括っているようだ。そのせいか可愛さが余計引き立って見える。
 自分の行動からの羞恥からか、指をモジモジさせ頬を赤らめているのがさらに可愛い。
 一瞬、据え膳食わねば何とやら……という単語が思い浮かぶ……イヤイヤ。
「お、おい……相沢」
 俺はまずまだ信じられない現実を確認するため、相沢に声をかけた。
「待て」
 いきなり相沢は俺に手の平を突っぱねた。俺は目の前に広がる手の平に軽く仰け反る。
 どうやらもう片方の手を口に沿え、向こうでぶつぶつ言っている。
「……何故だ……何故俺でなく北川……」
 仕方ないので俺は彼女の方に向き直った。まだ顔を赤くして俯いている。
「あぁ……なんていえばいいのか……」
「はい」
「俺は……Kanonの主人公のはず……なのになんでこんな役得が北川なんぞに来る……理不尽だ」
 教室の雰囲気も、冷静になってみれば結構こっちに注目が向いているらしいし、ここは場所を変えたほうがよさそうだ。「ちょっと……場所変えない?」
「あ、……はい」
 小さな声で同意をしてくれる彼女。俺は素早く席を立って彼女の腕を掴んで教室を出て行った。

 ――その直後の教室――
「いや……だから、その、やはりこれは夢なんだな。俺はまた性質悪い夢を見てるんだ」
 なかなかいい感じな現実逃避を完成させた祐一。ちなみに香里はいまだ机に屈したままだ。
「よし! 北川、俺の頬をつねれ……っていねぇ!」
 思いっきり席を立ちあがり、自分に突っ込みを入れる相沢。
「……くー」
 名雪は既に熟睡中。
「……っは!」
 そこに香里が息を吹き返した……というより、気絶するほど机に強く頭をぶつけていたらしい。
「名雪……は駄目ね。相沢君、北川君……っていない!」
 香里も祐一と同じく席を立ち、一人で悲しい叫びを発してしまった。
 そこにどこからか男子クラスメイトの声が。
「……どこかいったぞ。二人で」
「「ナイス!」」
 その言葉を残して、祐一と香里は音速のような速さで教室を出て行った。
「くー」
 残ったのは天使のような寝顔を浮かべている名雪のみであった。
 
 所変わって中庭。俺と彼女は人の目を避けるため中庭に出ることにした。
「……んで、聞きたい事あるんだけど」
 今まで掴んでいた腕を離し、
「……はい」
「名前……なに?」
「……は?」
 きょとん、とした顔をする彼女。あいにく、俺は人の名前は必要以上に覚えない性質だったりするのだ。
「美紀……河愛、美紀です」
「かわあい、みきさんね……で、いきなりどうしたの」
 俺は頭を掻きながら、話しを続けた。
「はい、だからHしてほしいんです」
「俺に?」
「北川君に、です」
 どうやら聞き間違いや、夢という訳ではなかったようだ。というよりさっきから時々頬はつねっている……痛い。
 かといって、これが現実だとしてもこんな事になった原因が自分に見当たらない。名前も覚えていない彼女が、自分対してそんな行為を頼まれる理由も見当たらない。
「なんで……?」
「あ、……駄目ですか?」
 俺の質問に答えずに、駄目かという質問を投げかける……どうやら何か彼女の方に原因があるようだ、と直感的に感じた。
 ここで後は俺の行動ということになる。
「そうだな……駄目って訳ではないというか……かといっていいという訳でもないし……」
 あいまいな事を言いながら、うんうん悩む俺。正直、こんな美味しい話は男としてはとっても嬉しいのだが。
 北川潤個人としては……どうかと思ったり。
「やっぱり……駄目ですよね……いきなりこんなこと言って……」
 顔を俯かせながら、泣きそうな声でそういってくる河愛さん。こういう態度をされると、どうも罪悪感を感じてしまう。
「……よし、じゃあ日付と時間を今度言うよ。それまで待ってくれるかな?」
「え……あ、はい」
 顔を上げて、ちょっとホッとした顔をする彼女。しかし、その顔には……

 ちなみに中庭の木の傍。北川と河愛には見えない場所に待機している祐一&香里。
 『美紀……河愛、美紀です』という所から、中庭にいる二人を発見し今に至る。
「んな……」
 北川のOKともいえる台詞に絶句する香里。
「北川……やはり据え膳食わぬば漢でないよな……ぐぉ」
 何故かやさしそうな笑顔を湛える祐一に、香里は肘を打ち込んだ。
「そんな……」
 そんな事を全くしなかったの如く、自分の世界に入り込む香里。
「ぐおおぉおぉぉ、鳩尾……」
 腹を押さえながら崩れていく祐一。どうやらモロ急所にめり込んだらしい。
「なんで……そんな安請け合いをするの……」
「どうした、北川がそんなに……がぁ」
 蹲ったまま、言う必要のない言葉を言ったために、祐一はさらに後頭部に肘鉄を喰らった。
 相沢機、沈黙。
「北川君……」
 こちら、何もしてないかのように北川の名前を呟いた。

 さらにここは屋上。今日は天気がいいので、静かなやさしい風が屋上を撫でている。
 そこに北川が現れた。しかし屋上には誰にもいない。
「……斉藤」
「……なんだ」
 斉藤という呼び声に、北川の頭の上から声がした。この屋上の出口の上で暇そうに座っている男は斉藤敏彦。
「情報を欲しいんだが」
「……どんな情報だ?」
 実はこの斉藤という男はかなりの情報を手に入れる事が出来る、学校で一番の情報屋だ。
 しかしあまり依頼を受け取らない事、さらにその依頼料も一介の高校生には払えない高額を吹っかける為、一回不良たちに囲まれたことがあった。
 そこを俺がたまたま通りすがり、助けた為にこんな簡単に情報を渡してくれるのである。
「河愛美紀という女子について。どれくらいかかる?」
「明日」
 そうぶっきらぼうに言うと、パタという音が聞こえた。どうやらこの後の授業をサボって寝るらしい。
「んじゃ、頼むわ」
 そう言うと、俺はすぐに屋上を後にした。これ以上の会話は斉藤は好かない。そういうタイプだということはあったときから分かってる。
 
 翌日。
「おぉ、斉藤。どうだ?」
「これだ」
 朝早い教室で俺は斉藤と待ち合わせていた。向こうからの連絡が昨日の夜遅くにあったのだ。
 俺に手渡れたのは、数枚の紙を閉じたもの。どうやら、彼女のことについてまとめた物らしい。
 俺は其れをぱらぱらとめくる。
 河愛美紀。身長162センチ、体重……これはまぁどうでもいい。3サイズなんかも正確に記してあった。いたって健康な女の子だと言うのも分かる。
 それから、家族構成やら友人関係へのページに入る。というより、後はこれだけらしい。
「……ん?」
 俺はその交友関係の中から奇妙なものを見つけた。
「彼氏……いるのか?」
「そうだ」
 資料の中、交友関係の彼氏の欄に『1』と記してあった。……複数の場合も書ける様にしてあるらしい。
 さらにページをめくると、その彼氏と付き合い始めたのはついここ最近らしいことも分かった。
「……彼氏いるなら……なんであんな事を……」
 交友関係やら、実際の彼女の性格から男に飢えているという判断は出来ない。ということは、二重人格並みの裏の顔があるか、もしくは何かやむを得ない理由があるのか……。
「でだ」
 いきなり声を掛けられ、俺は資料から目を離し斉藤の方を向いた。
「その彼氏という方も気になったので調べてみた」
「助かる」
 俺もどうもこの彼氏に何か臭いモノを感じていた。本当に斉藤は頼りになると思う。
 しかし、俺の手を差し伸べた手には何も乗ってこない。
「……おい」
「昼食一回分。これは依頼外の情報だからな」
 ……こいつ、足元を見やがって……。といっても、昼食一回分とはこいつからすれば破格の値段だ。
「了解」
 しぶしぶそういうと、俺の手にさらに同じような資料が乗せられた。
「……なになに」
 俺は資料をぱらぱらとめくっていく。身長、体重やらのステータスは無視だ。
 と、とあるページで手が止まる。
「……これは」
 俺のびっくりした顔に、斉藤はニヤリと口を歪ませた。


 またまた場は変わり、ここはとあるホテル街にあるホテルの一室。
 俺たちの街からはちょっと遠いが、いけない距離にいる場所。
 ここに俺と河愛さんはいた。彼女は今シャワーをしている。
 サアアアアァ――
 しかし……こういう雰囲気というか、このシャワーの音というのは緊張を促す効果があるのだろうか。
 嫌でも心臓の鼓動が早まり、大きくなるのが分かる。
 俺はベッドに座ったまま、これからの行動について思考をめぐらしていた。というよりこれからする事はほぼ決まっているのだが。
 ガチャ
 シャワー室のドアが開く音がした。俺がその方向に顔を向ける。
 ……正直、固まった。
 バスタオル一枚で、おどおどしながらこっちに来る彼女は、かなり扇情的に感じてしまう。
 どうやら、あの3サイズのデータは寸分の狂いもなかった用である。……綺麗な女性の体。
「あ、あの……シャワーは……」
 おどおどした声。…………やっぱり。
「俺はいいよ……こっちに来て」
 俺はベッドに座ったまま彼女に手を差し伸べる。それに応じるように彼女はこっちにゆっくりと歩いてくる。
「あ……」
 彼女の腕を掴んだ瞬間に、俺は彼女をベッドに上手く組み伏した。
 俺の腕の間で細かく震える彼女。組み伏した表紙にバスタオルも少しはだけ、胸の膨らみが少し見える。
「河愛さ……いや、美紀ちゃん」
 俺は名前をささやくと、少しずつ彼女の顔に自分の顔を近づける。キスを求めるために。
「あ、き……潤、さん」
 彼女も俺の名前を小さく言うと、目を閉じた。その瞼は微かに震えていて。
 彼女の唇と触れそうになるほど近づいて、止めた。
「今崎徹……」
「え……」
 いきなり彼女が驚き目を開く。俺はもう体を離し、ベッドから立ち上がっていた。
 彼女は体を起こし、ベッドのシーツを体に巻いた。
「お前の今の彼氏だろ?」
「なんで……その事……」
 この驚きようからすると、付き合っていることを隠そうとでも言ったのだろう。あの今崎は。
 今崎徹(いまざきとおる)。容姿は2枚目、スポーツもでき頭も悪くない。一件モテそうな要素を持つ彼は、そのとおりかなりモテている。
 しかし、モテるだけならまだしも彼は悪い性質を持っている。
 ――ばれない程度の人数と上手く付き合っている。しかも体だけ狙うタイプ――
 この資料を見て、正直手が震えた。怒りにだ。
 俺の見たときでは、3人の女性と付き合っており、しかもそれぞれ学校は別々だった。
 それでうちの学校では彼女、河愛美紀が付き合っている、いうことだ。
 俺はあらかたそのことを話し、彼女に今回の行動の真意を聞いた。
「で、なんでこんな事を?」
 彼女は自分の彼氏の酷い様に、しばし呆然としていたが俺の質問にたどたどしく答えてきた。
「私……友達から聞いたんです。徹さん、『処女は痛がるだけだから嫌いだ』って……」
 俺は怒りを覚え、思わず拳を握り締めた。多分その情報も意図的に流したものだろう。
「だから、私、彼に嫌われたくなくって……でも……」
 彼女はそういうと、俯いて泣き始めた。
「う、うっ」
 俺はそうやって声を抑えながら泣く彼女を、そっと抱きしめた。
「泣いて、すっきり忘れような」
 俺のちょっと格好つけ過ぎかな、と思うその言葉が引き金となったのか、俺の胸に顔を押さえつけると大声を上げて泣いてしまった。
「うわぁぁぁぁぁっ!」
 俺は大声を出しながら泣く彼女の髪を、泣き止むまでずっと梳いていた。
 
 ここはその某ホテルの外。電信柱の影に隠れるは香里
「まだかしら……」
 電柱の影に座って隠れながら、ひたすらホテルの入り口を凝視している姿はかなりアブない。
「ほい、香里。差し入れ」
 その電信柱に暖かい缶コーヒーを差し出す男。相沢祐一。
「そういや、なんで香里も来るんだよ。俺はあいつらが出てきたと共に童貞さよならのお祝いをするつもりで……ぐぁ」
 またまた鳩尾にいいのを喰らう祐一。
「北川君はまだだったの……じゃなくて、私は、あれよ」
「あ……あれ?」
 またも腹を押さえながら蠢く祐一。今回はすぐに返事が出来る程回復が早いらしい。これも慣れか。いや、こんな速さでなれる祐一が凄いのかも知れない。
 参考までに、この頃の名雪。
「……ケロピー、ファイナルフュージョンだおー……くー」
 参考にならなかったことを深く謝罪いたします。
「で、あれって?」
 すでに復活し立ち上がっている祐一。
「あ、あれっていうのは……そう、クラスの一員として男女の不順異性交遊を……」
「そう、って言っている時点でバレバ……のぉ」
 今度は彼の股の間にある男としての弱点に、彼女の蹴り(缶コーヒー経由)が当たった
「あぁ……俺もうダメ」
 そういっている間に、北川と河愛がホテルを出てきた。
「相沢君!」
「おう!」
 再び気配を消し電信柱に隠れる祐一&香里コンビ。その行動の鮮やかさはプロの尾行を髣髴とさせた。
「……入ってから1時間……」
「十分な時間だな」
「……彼女の目が赤い……?」
「泣くほど良かったんだろうな……羨ましいやつめ」
「それにしてもなんか北川君だけ制服がしわだらけ……」
「我慢ならんかったのだろう。それにしても本能に身を任せ相手を泣かせるとは……やるな」
「黙れ」
「のぉっ」
 二度目の急所。
「……お、とうさん、おかぁさん……不肖の息子は……男としての人生をここで終えそうです……」
「ってどこかに向かってる……あの方向は……学校?」
「飽き足りずに学校とは……やるながぁ」
「先に行っているわね、相沢君」
 三度目の急所は、冗談抜きで彼の男としての人生を危惧させるものであったそうだ。


 ここは夜の学校。俺と河愛さんは暗い学校には入らずグラウンドに足を向けた。
「北川君……ここに何が?」
「……行ったら分かる」
 そう言ってグラウンドに足を踏み入れた。今日は満月なので月光がグラウンドを淡く照らしていた。
「あれ、真ん中に……あれって人……!!」
 どうやら彼女も気付いたらしい。グラウンドの真ん中にいたのは斉藤と、事前に斉藤に頼んで呼んでもらった今崎徹。
「おぉ、斉藤ありがとう」
「……これで俺は帰る」
「じゃな」
 斉藤は俺の傍を通り過ぎると、とっとと帰っていった。あいつらしい。
「……それで何の用だい?」
 河愛さんが俺の後ろに回り、俺の背中の服を強く握った。
「……お前の彼女だ。ついでに知っているだろ?」
 そう言って、俺は今崎が今付き合っている残り2人の女性の名前を挙げた。
 彼はあまり驚いた様子もなく、鼻を軽く鳴らすと肩を竦めた。
「知らないね。それにその娘? 河愛だったっけ。付き合ってるなんてとんでもない」
「ひっ」
 その言葉に河愛さんの息の飲む声、それに伴い背中を握る力が強まった。
「お前……」
「そういうことだ……こんな夜中に俺を無駄な用で呼んだんだ。それなりの礼を払ってもらおうか……」
 そういうと、拳を握り構え始めた。どうやら俺をぼこぼこにするつもりらしい。
 そして口でも封じるつもりなのだろうか……
「……反吐が出る」
「けっ」
 そういうと今崎は俺の方に詰め寄り、左のパンチを俺に放ってきた。
 バキィッ
 俺はそのまま殴られた。今崎は追撃せずに一度間を取る。
「俺は空手の有段者でねぇ……暇だからボクシングも覚えてるんだよ」
 そう言うと軽いフットワークを見せ始める。たったっと小気味よいリズムが聞こえてくる。
「河愛さん……」
「は、はい」
 声からして、ちょっと泣いていたらしい。さっきから手が震えていた理由もそれだろう。
 ――余計怒りが沸いて来た――
「もう帰りな。この後の始末は俺がやっておくよ」
 そう言うと、彼女は背中から手を離し少し離れた場所で立ち止まった。
「……私のせいでこんなことになったんです……最後まで見届けても……いいですか?」
「……分かった」
 そういうと俺は彼の方向を向いた。とっくに俺の顔は切れた表情になっている。
「おぉ……怖い怖い……じゃあ、沈め」
 そう言うと、今崎は素早く自分の間合いに俺を入れ、左のパンチを放ってきた。……ジャブだろう。
 俺はそれをいくつかかわし、
 パシィ
「なっ」
 右手で難なく受け止めた。
「言ったろ……反吐が出る」
 そういうと、右手を引き今崎の重心を崩した。
「くっ」
 そのまま、今崎の顔に左の拳を叩き込む。
「おらっ」
「くっ」
 なんとか首の動きだけで避けた今崎は、俺の手を払い素早く後ろに飛びのいた。
「へぇ……やるねぇ。それなりには……」
「……だから?」
「本気になってやるよ。一発でのしてやる」
 そう言うと、今崎は今までとは段違いの速さで俺の懐に飛び込み、アッパーを繰り出してきた。
 こいつは分かっていない。俺が斉藤を助けたときの不良の数は……
「お前にあの言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
 俺はそのアッパーを難なく避け、無防備になった今崎の顔に拳を叩き込む。
「『一発でのしてやる』」
 10人だ。
 バギィ
 なんとも言えない不気味な音と共に、吹っ飛んでいく今崎。
 俺は血のついた拳を振るうと、くるっと振り返り河愛を見た。
「北川……君」
「なぁに、ちょっと喧嘩の腕があるだけさ」
 そう言うと彼女のほうに行き、肩をぽんと叩いた。
「帰ろっか」
「……はい」
 正直、こんな俺を見て逃げ出すかと思ったがそんな事無かったようだ。
 ほっと胸を撫で下ろし、安心する。
「これで、一件らくちゃ……」
「きゃあっ」
 後ろから聞こえてきた悲鳴に、思わず振り返る。
「きゃっ、今崎く……ぐっ」
 振り返った先には、今崎につかまった河愛がいた。あいつは片手で河愛の口を閉じ、もう片方の手にはナイフが握られている。
「くそっ」
 油断した。本気で殴ったので、てっきり一発で完璧にのしたと思っていた。
「くくくっ、こいつの顔が傷物になるぜぇ……」
 自分の腕に自身があるくせに、いざとなると刃物を取り出す……いい加減こいつの腐り加減にも切れてきた。
 しかし、この状態は悪すぎる。下手に動いたら河愛さんの顔に一生モノの傷が出来てしまいかねない。
「にしても……とっととこの女も処女捨てて俺に抱かれりゃ良かったのによぉ……運が悪いなぁ……」
「むぐぅ、ぐぅ」
 河愛は必死に声を出して抵抗しようとするが、いかんせん相手は曲がりなりにも格闘経験者。そう上手くはいかない。
「こいつ……」
 俺も下手に動く事が出来ない。完全な硬直状態だ。
「くくく……」
 今崎は気味悪い笑みを浮かべたまま、河愛の耳に口を近づける。
「ん! んー、んっ!」
 必死に逃げようとするが完全に抑えられた状態のため、ほとんど動けない。
 赤い舌を出し、河愛の耳をべろぉと舐める。
「ん〜!」
 その行為に嫌悪を覚えたのか、涙を流す河愛。
 その涙に、俺の最後の線がぷつっと切れた。
「てめぇ……」
 もう覚悟を決めた。危険覚悟で、こいつのナイフを打ち落とし、こいつを完全につぶす。チャンスは多分一瞬……見逃せない。
 俺は気付かれないように重心を落とした。
「いい加減に……」
「のごぉっ」
 俺が動こうとした瞬間に、今崎が変な呻きを残して崩れ落ちた。
「……へ?」
 突然のことに情けない声を発する俺。崩れ落ちた今崎の向こうにいたのは、
「あんたみたいな最悪な男、漫画だけの存在だと思ってたけど違うのね」
 美坂香里だった。
「あ……あの……美坂さん?」
「なに?」
 俺は恐る恐る、泡を吹いて倒れている今崎を指差した。
「何をしたのでしょうか?」
「ん? 股を一蹴」
「ははは……」
 俺は汗を流しながら、今崎を見る。
「…………」
 最悪の奴ながら、ほんのつめの先ぐらい同情。
「あぁ……北川……君」
 よろよろと歩いてくる河愛さん。
「大丈夫?」
 心配して近寄る俺に、いきなり抱きついてきた。
「ぬっ」
 美坂さん……『ぬっ』は女らしくないですよ……
「怖かった……」
 そういって泣きながら俺に必死に抱きついてくる彼女。
「まぁ……仕方ないわね」
 美坂も呆れたようにため息をついた。
「これで……一件落着だな」
 空を見上げながら一つ息をつく俺。
 今夜の満月は、とても綺麗だ。
 
『のぉ〜、男としての機能がぁ〜』
『出番少ない……くー』
 ……今のはなんだ?
 
 んで、それからしばらくして。
 今崎の奴は今までの所業があっさりとばれ(斉藤経由)、生徒会長久瀬によって退学処分に処された。
 これでひとまず俺の周りの一連の事件……というより騒動は終わった……はずだった。
「潤くーん、お昼まだだよね、はい手作りおべんと♪」
「あー、あのー」
 俺を潤君呼ばわりしている彼女は河愛さん。……なんかキャラ変わっちゃってますが。
「北川君?」
「……はい?」
 ギギギ、と首を後ろに向けると、そこには不動明王……じゃなくて美坂がいた。
「(にこっ)」
 目が笑っていません。美坂嬢。
「北川……」
「なんだ、相沢」
 俺は後ろから向けられる殺意に気付かないように前を向いた。
「香里の蹴りは本物だ。俺は一週間生きた心地がしなかったことだけを言っておこう」
 そんな半笑いの顔で言われたら余計嫌だ。
 今崎は顔面全治3週間、下半身は要リハビリだというのを風の噂で聞いた。
「くー」
 美坂ストッパー名雪は、スタンバイ中……というより起動してるほうがレア。
「なんですかー、香里さん。いいじゃないですかー」
 あぁ、河愛さん。そんなに腕を抱きかかえないで。その柔らかさから来る幸せに比例して、未来の死亡率が上がっていくから……
「(にこっ)」
 既にクラスメイトに気絶者確認。俺が後ろを振り向けない理由が原因らしい。
「…………ここは」
「「ここは?」」
 相沢と河愛さんが見事にハモる。
「戦略的撤退!」
 腕の柔らかさを降りぬけ、俺は教室を脱兎の如く飛び去っていった。
「潤くーん、弁当わすれてるー! 私の愛のこもった、なんて♪」
「きたがわくん……天国ってのを見せてあげる♪」
 同じ音符でも、それがみせる将来が全く正反対なそれを背中に浴びながら、俺は学校の廊下を走り抜けていった。

 残った教室では、
「……面白いんだが、なんか気に喰わねー」
「くぅ……けろぴー、そこは下段……くー」
 のほほんとした空気が広がっていた。
 今日も、綺麗に晴れ渡る青が広がっている。

<the end>

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